11月7日 礼拝メッセージ

「みこころを知りみこころに従う」

聖書:ローマ人への手紙12章1-3節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

「みこころ」について調べているうちに、みこころには二面性があるということを知りました。
一つは、エペソ1:11に書かれている「神の定められたみこころ」で人間が関与できない。
けれど、「神の望まれるみこころ」は、神の子どもとしてふさわしく歩んで欲しいと願われる神様のみ思いの中にあって、一人一人が選びとることができるというものです。
北海道の空知太栄光キリスト教会の銘形(めいがた)秀則師は次のように言っています。
「ひとりひとりに対する神のご計画としての『神のみこころ』、そしてそれを実現に至らせるために『神の導き』、
そしてそれに従うための内なる確信としての『神の召命』、その召しに従い続けるための自発的な『神への献身』…
これらはすべてワンセットであり、これが自分のうちに実現するように祈ることこそ、
『みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ』という祈りだと思います。」と、HPに書かれていました。

ローマ人への手紙12章1,2節では、神のみこころを知り行うために大切な3つの事が書かれています。
1つ目は、「ふさわしい(霊的な)礼拝」です。(1節)<口語訳>
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(1)
コリント人への手紙6:19-20では、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。」と書かれています。
イザヤ書43:1では、「わたしがあなたを贖った…あなたは、わたしのもの。」と書かれています。
私たちはイエス様の命の代価で罪の中から贖い出されて神のものとされている以外の何者でもありません。ゆえに、贖い主に感謝をささげます。
東方の博士たちは、はるばる異国から黄金、乳香、没薬等の宝をおささげするために御子を捜してベツレヘムに来ました。
ましておや、十字架でご自身の命と引き換えに私たちを罪から贖い出して下さった方に、私たちもまた、思いだけでなく、
からだごと礼拝者として主に感謝をおささげすることこそ、「ふさわしい礼拝」です。

2つ目は、「この世と調子を合わせない」(2節)ことです。
出エジプト記のエジプトはイスラエルの人たちにとって奴隷の地でした。
モーセを通して神はその奴隷の地から脱出をさせられました。
私たちは、罪の支配していた「この世」から、イエス様の十字架を通して救出されてきた者たちです。
ヨハネは第一の手紙で「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。…すべて世にあるもの、
すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、み父から出るものではない、世から出るものだらかです。」(15,16)と言っています。
神の世界(霊的事柄)である主のみこころをを、世の基準で推し量ることは本質的に無理があります。
 3つ目は、「心を新たにすることで、自分を変えていただく」(2節)ことです。
 バックストン師のきよめのメッセージは、ある日「自分の心が清くないことを感じた」ところから発しています。
心の汚れや間違い、「肉の欲、目の欲…」等に支配されている自分に気が付かせてくださるのは、聖霊の働きによります。
 キリスト教信仰は、教会に来ていたら、いつの間にか清い神の器になっていたとか、何かがよくなっていたといったたぐいのものではありません。
内にささやかれるご聖霊の細きみ声に対する応答から新な変化が生じます。
「心を新たにする」とは、今まで世の欲、目の欲、暮らし向きに向いていた心を、神の細き御声の方に方向転換する、心のハンドルを切り替えることです。
 そうして、私たちは「神のみこころは何か。すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(2)。

 聖霊の細き御声を聴き分けながら歩む中で、真に神が自分に与えられたものが何であるかを判別することができるようになります。
主の御声に従うことによって、高ぶりや傲慢、また、世の的思考に逸脱することから守られます。
その結果、夫々が「信仰の量りに応じて」物事を判断する力が備わってゆくにつれて、みこころを知り、みこころに従う者とされてゆくことでしょう。

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