10月17日 礼拝メッセージ

「愛について」

聖書:コリント人への手紙 第一 13章1-13節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

「愛について」聖書にはどのように書かれているでしょうか。

復活された主イエスは、十字架を前にして、イエス様を知らないと、激しく誓い、裏切ったペテロを前にして、「あなたは私を愛するか」とお声をかけられました。ギリシャ語原典では、イエス様からペテロへの語りかけは「アガペーミー」、ペテロの返答は、「フィレオ スぇー」と書かれていますが、日本語聖書はここを、「私を愛するか」、「あなたを愛します」とただ「愛」という一語を使っています。ギリシャ語は同じ「愛」でも「アガペー」と「フェレオ」を使い分けているのです。ここから、神が人を愛する愛は「アガペー」。人との間で抱く親愛の情は「フィレオ」であることを心にとめて、更に深く「愛について」知る者とされましょう。

 愛は人生で最高のもの

 コリント人への手紙 第一13章は、愛の章として有名な箇所ですが、ここでの原語は全て「アガペー」が使用されています。使徒パウロは13章の書き出し(1-3)において、人はどのようなものを得ていたとしても、もし、「愛」がなければ、「無に等しい」と言っています。

 かつては、律法の最高峰にいたガマリエルの門下生だった使徒パウロ。そのパウロは律法を人生の宝と教えられ、律法中心の生き方を堅持してきていました。ところが、キリストに出会って、「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどこか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさゆえに、私はすべてを損と思っています。」(ピりピ3:7-8)とまで言っています。人生の価値観が一変したのです。

更に、信仰生活においても、最も大切なことは、知識でも、山を動かすほどの信仰でも、全財産を貧しい人に施したり、また、自分の身を投げうって、人を助けるような善行奉仕、犠牲でもない。もしそこに愛がないならば、「何の役にも立ちません」(3)「いっさいは無益である」(口語訳)と、「愛」は、人生においてもしかり、信仰生活の中でも最高のものであると言っています。(13)

 愛の本質を見極める

では、その「愛」とはどのようなものなのでしょうか。パウロはガラテヤ人への手紙で、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(22)記し、愛は実に、御霊の実であると言い、ここでは、「愛」について更に具体的に、「寛容」「親切」「ねたまず」「自慢せず」「高慢にならず」「礼儀に反せず」「自分の利益を求めず」「苛立たず」「「人がした悪を心に留めず」「不正を喜ばずに、真理を喜ぶ」「すべてを絶え」「すべてを信じ」「すべてを望み」すべてを忍ぶ」と、愛の本質を述べ、私たちの愛の真実性に迫ります。それは丁度、聖霊の光が私たちの内を照らすように、みことばの光が私たちに内にあるものを照らし、リトマス試験紙の様に判別させます。「愛」を自分の名前に置き換えて「私は、寛容です」「私は、~」等と、読み変えると、自分自身の愛の実態が見えてくることでしょう。単なる社交上の表面的なものであるなら、すぐに愛の試験紙は色を変え、偽物を見破るに違いありません。

ジョルズ・ベルナノスの書いた小説「田舎祭司」の中に出て来る伯爵夫人と神の愛との出会いは、突然の子どもの死から始まりました。それまでは、深い問題意識を抱く必要のない幸せなキリスト教徒であったかもしれません。けれど、彼女は子どもの死を機に、神を呪いながら生きる者となりました。ある日、激しく神を呪い拳を上げる夫人に神父は言います。「こぶしを神に向かって振りあげていらっしゃりたければ、ぜひそうなさってください。あるいはキリストの顔に唾を吐きかけ、その肢体をむちうち、十字架にはりつけるのも結構でしょう。しかし、今さら何の役に立つでしょう。神はとうの昔にそんな目に会われたのですから」と。伯爵夫人はやがて死の床を迎え、そこで気付くのです。「地獄とは愛さなくなる状態」だということを。そして、自分で作り上げた地獄に閉じこもっていった自分自身の本当の姿を見せられた夫人は、「何もかもめぐみなのだ」とわかったのです。そうして、悲しみに固く閉ざされていた心のからを突き破り、くすぶり続けていた愛のうもれ火がかき起こされていくのです。

人間にとって最も大切なことは、人生のどこかで、愛である神ご自身に出会ったかどうか?そして、今、この大いなる神の愛に生かれているかどうかです。

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