「わたしだ。恐れることはない」
聖書:マルコの福音書6章45-52節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
もしもです。何事も思い当たることがないのに、突然、親しい人から、「大丈夫ですよ」と声を掛けられた、どのような思いになるでしょう。安心するどころか、逆に、「私、何かしたのかしら、私の知らない間に何かあったのかしら」と、返って得体の知れない不安を抱くかもしれません。不安はどこからでも、私たちの心に忍び込んできます。
聖書は、不安に関する言葉が、365回使われていると言われています。それは、丁度、1日に1回、神様は私たちに「恐れるな」と語って下さっていると言えます。それ程、神様の目から見ても、私たちは不安を抱く存在と言えます。
ある日イエス様はお弟子たちを、敢えて舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせ(45)、ご自身は一人残って、祈るために山の方に行かれました(46)。弟子たちの舟は、夕方湖の真ん中あたりで、逆風に遭遇し、弟子たちは漕ぎ悩み(47,48)、夜明け頃まで風と格闘をしたものの、舟は一向に前に進みません。ホトホト疲れ果てた弟子たちの側を、どうしたことか、イエス様が通り過ぎて行こうとされたのです(48)。弟子たちはそれがイエス様だと思われず、幽霊だと思って、恐れて叫び声をあげたのでした。その時イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(50)とみ声をかけられて舟に乗り込まれたのです。すると、逆風は止んだのです。弟子たちは非常に驚きました。なぜ、イエス様はこのようなことをされたのでしょう。
霊の目が開かれる為に
この時の弟子たちの「驚き」の根源は、「彼らはパンのことを理解できず、その心が頑なになっていた」(52)、ここにありました。弟子たちはこの船上の体験をする前に、パンの奇跡を体験していた(37-44)のです。にも関わらず、彼らはその奇跡について霊的な理解ができない、即ち、霊的にまだ盲目であったのです。
イエス様は、生まれた時から目の見えない人の目を開眼され(ヨハネ9:1-3)、耳の聞こえない人の耳を開かれ(マルコ7:35)ました。確かに、肉眼の目は見え、声は聞こえていても、霊なるイエス様を見ることができず、霊の言葉を聴くことができない人がいます。霊の世界が開かれていないと、たとえ洗礼を受けたクリスチャンであっても、この時の弟子たち同様に、あれほどの驚くばかりのパンの奇跡が成されて、肉のお腹は一杯になったとしても、霊的には(魂は)エンプティ(空)なので、霊なるイエス様の真の必要がわからず、なぜ、今こうした状況に自分たちが置かれているのかが理解できず、ただ驚くばかりになります。御子の十字架によって、霊の目、霊の耳を開いて頂く時、人生の真の目標が見え、今起こってきていることが何を意味しているかが理解できるようになるでしょう。
逆風は神の栄光の前触れ
漕ぎ悩む弟子たちの側をイエス様が通り過ぎようとされました。「通り過ぎる」、これは、決して弟子たちを捨て置いて過ぎ去ってゆくという意味ではありません。「通り過ぎる」この言葉は、神の栄光を現わされる事と繋がっています。
かつて、モーセは、心が頑ななイスラエルの民を約束の地に導く際、その働きの困難さに、主に向かって、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」と叫びました。その時、主はモーセを岩の裂け目に入れて、ご自身の御手で彼を覆いながら、彼の前を通り過ぎ、栄光を現わされたのです。
イエス様は、霊的になかなか目が開かれない弟子たちを、海上に連れ行き、あえて逆風を送り彼らに信仰のご訓練をされたのです。彼らにとっての海上の逆風は、モーセの岩の裂け目でした。主ご自身が御手でその裂け目を覆ってくださるように、イエス様は彼らの舟を沈める事はされず、その嵐の中で、彼らの信仰を訓育されたのです。出エジプト34:4は、“主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、…」”と記しています。その直前においても、「わたし自信、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(3:19)と記されています。
ある人は、病気という裂け目に、あるいは人間関係の軋轢という裂け目に隠される事があります。その裂け目こそ、実は、神が大いに恵み祝福しようとして、御手で覆って通り過ぎるがごとく、「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と御声をかけられ、風雨に翻弄される舟の中に、栄光の主ご自身が一歩足を踏み入れようとされている、まさに栄光を現わされる前触れと言えます。