9月26日 礼拝メッセージ

「木にのぼったザアカイ」

聖書:出エジプト記ルカの福音書19章1-10節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師


人生を旅として捉えている人は少なくありません。旅の楽しみは、綺麗な風景やお土産。
旅での出会も楽しみの一つです。イエス様もまた、地上での歩みの中で、多くの人たちと出逢われました。

出会いは神によるイエス様は、ヨハネの福音書6章33節で、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」と言われました。
そうであるならば、今、私たちがここにいること、そして、何らかの形で、イエス様と関わりをもっていることもまた、み父が引き寄せて下さったと言えるでしょう。
 ヨハネの福音書4章でイエス様は「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」と言われています。そこには、サマリアにいる一人の女性との出会う必要があったからです。その一人がイエス様に出会うことによって、サマリアにリバイバルが起こりました。
私たちの人生もまた、こうした中で、偶然出会ったと思っていても、実は、神が人と人との間で出会いの道を備えられていたことに気がつくのです。

エリコの入り口での出来事
イエス様は、19章でエリコの入り口で、道端に座って物乞いをしていた、一人の目の見えない人と出会います(18:35-43)。彼は、人々の騒めきを耳にして、「これはいったい何事か」と道行く人に尋ねました。人々から「ナザレ人イエスがお通りになるのだ」と聞くや否や、「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください。」と彼は叫び始めたのです。
人々は「ナザレ人イエス」と言ったのに対して、彼は、「ダビデの子イエス様」と言っているところから、この人はすでに、イエス様を知っていたことがわかります。イエス様を救い主として認めていたということです。
いつか、自分の前を通り過ぎないかと、むしろ期待して待っていたのかもしれません。
イエス様もまた、その人をご存じだったでしょう。
けれど、もし、そこで、彼が叫び出さなければ、この目の見えない人は一生涯、光を知らない人生で終わってしまったかもしれません。
けれども、彼は叫びました。そして、彼は人生に新しい光を得たのです。

取税人ザアカイとの出会い
19章に入り、イエス様はエリコ入場間もなく、取税人ザアカイと出会います。
彼は、ローマが課す税の徴収人として、人々から大変嫌われていましたが、ザアカイもまた、イエス様を求めていました。
「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆の為に見ることができなかった。」と3節には記されています。
ここでの「イエスがどんな方かを見ようとした」は、原語的には、「賢明に試みる。見出そうと捜し求める」という深い意味があり、背が低い為に群衆に遮られてイエス様を見ることができないハンディを負って、彼は、いちじく桑の木に登ってでも、イエス様を一目でも見ようとしたのです。
当時、金持ちは紫の衣を着ることが多かったそうですが、紫の衣をきた大の大人が、服が破れてもかまわない、人々から笑われてもかまわない、と思うほどに、一心にイエス様を求めたのです。
ピりピ人への手紙3章12節では、「ただ捕らえようとして追い求めているのです。
そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と書かれています。人が神を追い求める思いはどこから来ているのでしょう。
実は、神様が求めているものを与えようとして、追い求めさせてくださると言うのです。
また、「求める」という行動は、謙遜でなければできません。神は夫々の行いをご覧になって、高ぶる者を退け、謙る者にめぐみを給うお方です。
イエス様は、いちじく桑の木の葉の間からじっとご自分を見ようと目を凝らしているザアカイに向かって、「ザアカイよ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(5)と、ザアカイの登った木の下から御声をかけられました。その時のザアカイの驚きはどれ程だったでしょう。

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え入れた。」(6)
人が神の方に向かって歩み始める時、必ずと言ってよい程妨げが起こります。
ザアカイの家の客となったキリストに、人々は、「あの人は罪人のところに行って客となった」とうわさしました。
けれども、ザアカイは真実に悔い改め(8)、「今日、救いがこの家に来たした…人の子は失われた者を捜し出して救うために来たのです。」(10)と、イエス様からお金や物に変える事ができない祝福を得たのです。

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