8月29日 礼拝メッセージ

「良きサマリア人」

聖書:ルカの福音書10章29-37節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

①行動に先立つもの
「良きサマリア人」の譬え話を、少し掘り下げて、大人的な見地から一人一人を見てみましょう。
祭司、レビ人は神に仕える立場の人たちでしたが傷ついた旅人を助けませんでした。
助けている内に自分も強盗に襲われたら大変と思ったからでしょうか。
あるいは、祭司やレビ人は、死体に触れると汚れを帯び、神殿での義務を果たす資格が失われる立場にあったので避けたかもしれません。
反対に、サマリア人は、そうした立場的な規制がなく、お金の持ち合わせや時間もあったからできたと言う見方もできます。
けれど、イエス様の話しの内容を良く読めば、祭司、レビ人は、倒れているその人を見ると、「反対側を通り過ぎて行った」(31,32)と書かれていますが、
サマリヤ人は、「見てかわいそうに思った。そして近寄って」(33,34)と書かれているところから、
単に、彼らの行動を責めたり、褒めたりされようとして話されたのではなく、その行動の底にある心の状態、心情に焦点が当てられていることに気づきます。
それからすれば、祭司、レビ人の心情は非常に冷ややかであることは確かです。
②真の隣人
では、自分が強盗に襲われた旅人の様になった場合、本当に助けてくれる人がいるのでしょうか。
私たちは、生きている限り、時にはいじめられたり、ツマハジキにされたりするものです。
あからさまにそうされなくても、隣人の何気ない言葉にも深く傷つきながら生きています。
 「大草原の小さな家」の物語の中で、一人の少年は、養子先の家での酷い待遇に耐えかねて、
妹と逃げ出す途中、足を木の枝に引っ掛けて傷を負ってしまいます。
傷から流れている血を見た妹が、「お兄ちゃん足痛いでしょう」と聞くと、
少年は、「足よりも、(養子先の家族を)赦せない心の方が痛い」と答えている場面がありました。
外傷は時と共に元通りになってゆくかもしれません。けれど、心に負った傷はどのようにして癒せば良いのでしょう。

傷つき、苦しみ、呻く人の心の叫び声を聞いて、近づいて来て下さり、
「傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし」、「自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱をした」とすればどうでしょう。
オリーブ油は聖霊、ぶどう酒は十字架、宿屋は教会、支払いは、イエス様の全き贖いを当てはめて、再度「良きサマリア人」の譬えを読み直してみれば、
イエス様こそ私にとっての良きサマリヤ人でいらっしゃったことに気づかされるのです。
主イエスは、私たちの心の傷口にご自身が十字架で流された血を注ぎ、他人を呪いながら生きていた心と思いをきよめ、
聖霊の油を注いで、真の魂の癒しと憩いの場である教会を与え、完全な贖いを約束してくださいました。
 
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。
 それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネ第一の手紙3章16節 口語訳)
 私たち人間は、愛されるという体験があって、他者をも愛することができるものですが、
真のサマリア人となって私を救って下さった、イエス様の愛の中から溢れ出る愛をもって、新しく生きる者とされる時に、
私たちもまた、イエス様の御足に従う「良きサマリア人」とされてゆくことを知るのです。 

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