3月8日 礼拝メッセージ ~ 四旬節第3主日 ~

メッセージ 『ひとりで祈る祈り、一緒に祈る祈り』

聖書 マタイの福音書6章6-8節(新p9) 18章19-20節(新p37)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

イエス・キリストは、一人で祈る祝福と一緒に祈る時の祝福があると言われました。
マタイの福音書18章19,20節   ★ 一緒に祈る祝福
「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」このみ言葉は、他者と一緒に祈る祈りの確かさ示しています。ここでの「もう一度あなたがたに言います」の言葉は、16節の「二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。」と言われたイエス様ご自身の言葉を受けて、祈りにおいても、二人の人が一致して祈る祈りを神様は重んじて下さることを知ることができます。ヨハネ8:17の「二人の人による証しは真実である」の「真実」「有効」とも訳せる言葉です。また、使徒パウロは。「互いの重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)と言っていますが、祈りによって互いの重荷を分かち合う時、その重荷は軽くなります。また、主の名によって共に集まっているところ、そこは神から与えられている場所であり、そこに神もともにおられることをみ言葉は示しています。それ故、共に集まり、声に出して一緒に祈る祈りには力があり、神様はその祈りを聞こうとしておられることを知ることができます。
  けれど、他の人と声に出して一緒に祈る時に問題も生じてきます。それは、人を意識するところから起こってくる、自分を守ろうとする思いです。ほかの人がどう思うかを気にする。霊的に見られ、人から重んじられたいと思うこ
と等です。また、自分の祈りが完全でないことを気にしたり、途中で泣きだしてしまうかもしれないと思ったり、しばしば長いたいくつな祈りとなることもあり、ただ習慣として祈るということもあります。そこには、神様に対する確信が曖昧で、漠然としていて、よくわからない神に祈っているように思えることさえあります。何の関係ももっていな方に親しく語りかけることは不可能なことだからです。こうした祈りの状態に陥る時に必要なことは、まず、キリストを心に受け入れ、はっきりとキリストに従うことを決意し、彼が信頼しうる方であることを信じることからスタートしなければならないかもしれません。
  また、声に出して共に祈る時には、祈りの中で他者の名前をだして誹謗したり、秘密を暴露したり、辱めるような結果になることは極力注意し、避けなければなりません。他の人と一緒に祈りたいと思わない人もいます。言葉が上手く言えない、恥ずかしい、と言った理由も考えられますが、自意識が祈りを封じてしまっていることがあります。けれども、それはまた、子どもから大人になったことの当然の結果であるとも言えます。子どもたちは自意識に煩わされることなく、単純に無邪気に祈ります。神の国で神の子として生きるのには、幼な子のようにならなければいけない、と主イエスは教えられました。大人である私たちは、良い自分だけが見られることを意識して本当の自分を隠そうとして、周りとの間に城壁を築いてしまいます。ボンヘッファーは「交わりの生活」の中で、「声に出して祈ったあとで、いわば自分の肩を自分でポンとたたいて、『やあ、なかなか、いいお祈りをしたじゃないか』などと自分に言うとすれば、それは矛盾もはなはだしいことです。」と言っています。共に祈る時は自分からも他者からも目を離す注意が必要とされるでしょう。
   マタイの福音書6章6節   ★ 一人で祈る祝福
 「あなたがたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 私たちにとっての礼拝は日曜日の朝の礼拝のことでした。けれど、地上の人間が全能の創造者を褒めたたえ、畏敬の思いを神にささげる時、それは、真の意味での礼拝です。もし、私たちが神と交わる為に他の活動を止めて静思の時を持っているなら、私たちの日常はどんなに豊かな恵みをもたらすことでしょうか。ケズイックの牧師の為の分科会でウイルモア師は、「牧師が恵まれることが群れが恵まれることである」と言われました。牧師でなくても、一人のキリスト者が、ひそかなところで、神の御前に出て、神と語り神と交わる静思の時を持って、家族や、学校や会社で人と会うとすれば、どんなに、その人と接した人たちは恵を受けることになるでしょうか。ロザリンド・リンカー氏は著書「祈り」の中で次のように言っています。
 「神を礼拝しているその時に、私の心は洗われ、わたしのすべてを心に留めたもう神の愛を確信いたします。そのときにこそ、キリストの十字架と苦難とがわたしの心をうって、彼の愛の深さを、もっともっと知りたいと思うようになります。礼拝のさなか、感嘆の思いにあふれ、意識的にまた無意識的のうちに、心の底から愛を注ぐ時、そのときわたしはほんとうの人間になります。このように神を礼拝するときに初めて、『あなたがわたしにとどまり、わたしがあなたにとどまる』というみことばの意味がわかるようになります。」と。

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