メッセージ 『すべての必要を満たされる神』
聖書 ピリピ人への手紙4章15-23節(新p400)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
最終 使徒パウロは、Ⅱコリントで、「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。」(3:3)と言っています。イエス・キリストの十字架によって罪罪赦されて、国籍を天に持つ者とされたた私たちは、イエス様を知らない人たちに神様から送られている手紙。それは、筆によって書かれたものでなく、「人の心の板に書き記されたもの」(3:3)とパウロは言うのです。果たして、私たち一人一人は心の板にどのように書き記され、日
々出会う人たちの心にどのように読まれているのでしょう。
ピリピ人への手紙講解説教は最終章になりましたが、手紙の締めくくりは古今東西を問わず、挨拶でおわりますが、大切なのは中身。ローマの獄中、死が迫る中で書かれた手紙であることをしっかり、心に留めましょう。
振り返って、1章では、投獄されたことさえも福音の前進に役立つ(12)と言ったパウロは、「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(21)とまで言いました。パウロの内にキリストが生きておらたのです。2章では、「何事も利己的な思いや虚栄心からするのではなく、へりくだって、・・・」(4)と謙遜の重要さを伝え、3章、「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。」(2)と、異端的教えへの鋭い警告を発しています。私たちも必要以上に形式に捕らわれ過ぎることを注意しなければなりません。4章では、「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。・・・」(2)と、名指しで主にあって一つとなることの大切さを伝え、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4:4)と喜びの大切さ重ね重ね強調しています。そして、この最終章でパウロはピリピ教会から受けた献金への感謝で締め括ります。
献金のめぐみ
日本人は一般的に金銭について語ることは卑しいことと考える節があります。ですから、お金のことを言うと、宗教家らしくないと思われたり、献金がつまずきの原因となることさえあります。けれど、パウロは、真心込めたささげものは、「芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」(18)と言っています。また、17節で、「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。」(18)と、パウロが受けた贈り物はパウロへの宣教献金として霊的口座に収められていると言うのです。献金は様々な形でささげらます。礼拝でおささげする献金は礼拝への感謝と信仰の応答をもっておささげ致します。献身を献金で表す礼拝においてはもっとも厳粛な時です。また、原始教会では資産を共有したことが記されていますが、現代においては、多くの教会は月定献金をもって教会の活動を共に支援していっています。ですから、献金者名記において、お互いが一つの教会の支え手であることを確認する上で大切な意味があります。それはまた、様々な事情
で礼拝に出席できない方が教会生活を共有できる大切な場でもあります。その他、献金は信仰の表明であり表現でもあります。ある方は、なかなか体調が元に戻らないので、まだ熱が下がらないにもかかわらず、「信仰の先取りです」と言って、癒されたという感謝献金をされました。そして、その通りに癒されました。年齢的なこともあられるのか、その方は次々と病に見舞われましたが、都度癒されてお元気で今に至っています。それだけでなく、御身体を弱められた方のためにお掃除を変わってあげるなど、献金だけでなく、目につかないところで主の御前に仕えておられるお姿の中に、キリストの香りをこの教会に放っておられます。隠れたところでの捧げものや奉仕は神に覚えられていて、その人の人格を中側から変えてゆきます。19節でパウロは、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と明言していますが、バークレーという聖書学者は、「神の富は、神を愛し隣人を愛する人々に開放されている。贈り物をする人は決して以前にもまして貧しくなることはない。むしろ、自分の(神への)贈り物が神の賜物と富を開放することになるため、以前にもまして富んだものとされる」と言っています。私たちはささげることを通して、神の栄光の富の豊かさを実際的に知ることができるのです。昔の米国ネバタ州の砂漠で一人の貧しそうな老人を自動車に乗せてあげた青年が、その老人から何億という巨万の富を受けとることになりました。そのみすぼらしく見えた老人は、「地球の富の半分を持つ男」とまで言われたハワード・ヒューズだったのです。神様は、ハワード氏以上に、スプーンで献げたものをスコップで返される以上のものを返されるお方であることを私たちもまた経験したいものです。
さいごにパウロは、「聖徒の一人一人に、よろしく伝えてください。」(21)と言っていますが、罪赦された罪人にすぎない私たちを神は「聖徒」とみなしてくださいます。「カエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。」(22)とも言っていますが、この言葉で、ローマ皇帝の宮殿の中にもキリスト者がいることをピリピの人たちが知って、どんなに喜び励まされたことでしょうか。神の福音の力に抗うことは誰もできません。
