メッセージ 『すべての理解を超えた神の平安』
聖書 ピリピ人への手紙4章1-9節(新p399)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
キリスト者の日常生活における一致の勧め
詩篇133:1、教会がこのみ言葉のように、兄弟姉妹が一つになって共に住むことは、なんという幸い。けれど、模範的といわれていたピリピ教会にも、ユウオデヤとスントケという二人の婦人の間に対立と不一致の問題が生じていました。この二人は、熱心に福音宣教のために協力して働いている人たちでした。不一致の原因は何だったのでしょう。
考えられることは、キリストによる愛についての間違った理解です。自分本意の理解に基づいて、他者に対しても自分の思う愛を求める。そして周りが自分の考えた通りでないと非難する。こうしたキリストの愛についての誤解、自分本意の理解の仕方に問題がなかったか。(新聖書講解シリーズ8から) 次に、キリストの赦しという体験の理解の不徹底さです。自分の赦された罪の重みを自覚していなければ、他の人を赦すことは困難です。自らが無条件で赦された故に他の人を赦す者となれる。(マタイ18:21-35) そして、「教会」という存在の認識不足が考えられます。教会は同好会や社交場ではなく、キリストによって罪を赦された罪人の集いです。神の国の建設のために同じくびきを負っている者の集まりなのです。この集まりの中心にはキリストがおられる。その主にある真の協力によって、神のみこころにかなう教会を築き上げていきたいという認識が一人ひとりに問われます。そこでパウロは、キリスト者のあるべき姿を具体的に描き出してゆきます。
「喜び」と「寛容」の勧め(4,5)
ピリピの手紙は獄中で書かれているにも関わらず、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4)と、喜ぶということばが合計16回もでてきて、別名「喜びの書簡」とも言われています。パウロの言う「喜び」とは何なのでしょう。それは、「いつも」とある様に、時の経過と共に消えてしまわない継続的な喜びで、生きていること自体を喜ぶ「喜び」のことをさしています。その秘訣は、「主にあって喜ぶ」ということです。
「私たちの人生を真に喜ぶ者として歩むのに不可欠なことは、神との交わりを回復し、神の救いに与ることです。私たちが主イエス・キリストを救い主として信じる時、神は私たちの人生を更新し、神の救いがもたらす永遠のいのちと、そこからくるきよい生命力によって、私たちを力強く支えてくださる。そこに生きることの充実感、充足感を得ることができます。・・・自分で生きるのでなく、主に生かされている人生。どんな環境にある時も、主が背後に立ち、支えの御手を伸べてくださる人生、ここに、変わらない喜びのある人生が存在します。」と、新聖書講解シリーズ8は記しています。
更に、「寛容な心を、すべての人に知らせなさい」(5)とありますが、「寛容」は、柔和とも穏健とも訳せることばで、これは、主にあって常に喜んでいる者だけが持つことのできる心です。「主は近いのです」(5)主がいつ来られても良いように寛容な心で人々とも接する。これは命令形で書かれています。
「思い煩い」への警戒(6,7)
「思い煩い」は人が人生の正しい目標を見失って歩んでいる時に現われるものです。ある聖書学者は、「人間の思い煩いとは、結局は人の心が本来向けられるべきお方、神から離れてしまって、自分自身や何かの事物に向けられている時に起る現象である」と言っています。ルカ10:38-42にマルタとマリア姉妹がでてきます。妹のマリアはキリストの足元に座ってお言葉に聞き入っていましたが、姉のマルタは、もてなすお方よりももてなしの方法にばかり気を取られてしまって、疲れてしまい、妹のマリアに不満が向けられました。その不満はキリストご自身にも向けられました。そのマルタに主イエスは、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。」(ルカ10:41,42a)と優しく語りかけられました。また、イエス・キリストは、マタイ6章で、「まず神の国と神の義を求めなさい。」(33)と言われています。
結果、パウロは思い煩わないで生きていく秘訣について、私たちのすべてを知っておられる神と人格的な交わりを持ち、祈りと願いによってすべてのことを申し上げるということの大切さを伝えています。あらゆる場合に、感謝をもって祈り、私たちの願いを神に知っていただく時(6)、「すべての理解を超えた神の平安が」私たちの心を守ってくだいます(7)と。「守る」という言葉には、「監視する」という意味があり、私たちの人生の進路が誤ることのないように神は監視してくださっているというのです。思い煩いを神に委ねた時、そこで、私たちは初めて、「理解を超えた神の平安」を体験することでしょう。私たちにとって、思い煩いを委ねることが、思い煩いから解放される唯一の方法なのです。
「学び」、「受け」、「聞き」、「行え」(8,9)
8,9節、これは社会にあるクリスチャンの上着とも言えることばです。さらに、学んだこと、受けたこと、聞いた、見た、その全てを実行する、「そうすれば、平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(9)とパウロは締めくくります。み言葉に生きる時、神の臨在は現
実になります。 参考書;新聖書講解シリーズ8 工藤弘雄著「キリストはすべて」他
