メッセージ -アドベントの黙想-『博士たちの礼拝とヘロデの礼拝』
聖書 マタイの福音書2章1-11節(新p2)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
アドベント第三週。クリスマスと言えば博士たち。この博士はどこから来たのか。なぜユダヤ地方まで来たのか。興味を覚えるところです。マタイの福音書2:2は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」と記載。博士たちは、民数記24:17に書かれている「ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、・・」という古文書(旧約聖書)の記載から、その星を発見し、新しい王の出現をお祝いに出かけた思われる。彼らは「マギ」と言うことばが使われているところから、魔術に関わる仕事をしていたとも思われる。おそらく星占いに関わっていただろう。または、天文学者とも言われている人たちである。社会的立場としては「領主」で、ある程度の経済力があった人たちだろう。星占いに関係がある異邦人ではあったが、真理を求める求道者とも言える。その背景からして、彼らは不思議な星の出現に心が捉えられて、大きな期待を抱いて、はるばる東方のバビロン地方からユダヤに向かって何か月もかかって旅をしたと思われる。
新しい王の誕生とヘロデ王
「新しい王の誕生」であるなら、当然ながら博士たちはユダヤの宮殿を訪ねた。そこには新しい王ヘロデが君臨していた。彼らの訪問で新しい王の出現(誕生)を知って、「ヘロデ王は動揺した。」(3)。なぜなら、ヘロデは、紀元前73年頃、イドマヤ出身の武将アンティパトロスの息子として誕生。彼はハスモン朝の内紛に乗じて力をつけて総督となり、最終的にローマ元老院から王位を認められ、紀元前37年に新しくヘロデ王朝を築いたからだ。
それだけでなく、「エルサレム中の人々も王と同じであった」(3)と書かれている。そこで、王が祭司長や律法学者に新しい王であるメシアの出現について尋ねると、聖書に精通している学者である彼らは、ミカ書5:2を引用して、「ユダヤのベツレヘムです」(5)と答えている。(実に祭司や学者はキリスト誕生を知っていたわけです。)これを聞いたヘロデは、星の出現の時期を詳細に聞き出し、博士たちに「見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」(8)とその場をつくろって彼らを送り出し、結果、ヘロデは、自分の立場を揺るがす不安要因である新しい王を抹殺しようとして、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しをはかる(16)。
博士たちの礼拝
博士たちは、不思議な星を見て、その星を追ってユダヤへ来た。真の神を知らないマギたち。しかし、何か月も、状況によっては数年かかるかもしれない危険な旅を彼らは実行した。博士たちは、単に星占いをしていたのではなく、真理の探究者であったのだ。「私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と言う言葉は、博士たちの深い求道心を表している。
「領主」であっただろう博士たちは、貧しい馬小屋に眠る幼子にひれ伏し、宝の箱を空けて、黄金、乳香、没薬という高価な、大切なものを取り出しささげ礼拝をする。彼らのささげものは、キリストがどんなに価値のあるお方であるかを表している。もし、博士たちがキリストを単なる人間と見なしていただけならば、こんな高価な贈り物を、貧しい夫婦の赤ちゃんに与えるようなことはしないだろう。英語のWorshipと言う言葉は、worth (価値、ふさわしい)という言葉に由来していると言われているが、果たして私たちは、神を、神に相応しい態度で崇め礼拝していたか。救い主に相応しいものを、キリストにささげていたかがを問い直してみたい。
旧約時代、ささげものなしの礼拝は成り立たなかった。しかも、傷の無い一番良い羊や家畜を選んでささげた。では、今私たちは何をささげて礼拝に臨めば良いか。使徒パウロは、ローマ12:1で、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたのふさわしい礼拝です。」と勧めている。
東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬を自分たちの国を出る前からすでに用意していた。この贈り物は高価であっただけでなく、黄金は真の王を意味し、乳香は祈り、没薬は死という信仰告白が秘められていた。
ヘロデの礼拝と私たちの礼拝
ではヘロデはどうか、彼は「私も行って拝むから」と言ったが、それは真っ赤な嘘だった。彼は拝む為ではなく、自分の王座を脅かす存在を抹殺するためにキリストのもとに行こうとしていた。彼は自分の利益(思い)を妨げるものは決して受け入れることはできなかったのだ。私たちの礼拝はどうだろう。キリストの死を通して、肉の思いをキリストの死に明渡して、日々祈りの香が神にささげられ、あなたが私の真の王ですと、きっぱりとキリストを私の心の王座にお迎えして礼拝していただろうか。偽りの「ヘロデの礼拝」と自分の都合に合わせた「我がままな礼拝」に、果たして、どれだけの違いがあったのだろう。アドベント第三週に、しばし立ち止まって考えてみたいところです。
