11月2日 礼拝メッセージ

メッセージ 『喜びを失わないために』

聖書 ピリピ人への手紙3章1-11(新p397)


メッセンジャー 高江洲伸子牧師

ピリピ人への手紙はパウロがローマの獄中で書きました。パウロは1,2章で「喜び」の大切さを知らせ、3章の書き出しもまた、「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また、同じことをいくつか書きますが、」(1)と敢えて言っています。それは、「あなたがたの安全のために・・・。」(1)と、信仰生活から喜びが失われること非常に危惧しています。それほど、信仰生活と喜びは深いつながりがあるということを知ることができます。

1. 律法主義者(ユダヤ主義)、間違った教え(異端)への注意喚起

「犬どもに気をつけなさい」(2) パウロがここで「犬」と呼んでいるのは、異邦人のことではなく、ある種のユダヤ人のことです。「悪い働き人たちに気をつけなさい」(2)。イエス・キリストの無条件の救いを得ていない、伝道者、教師として入り込んできた人たちのことです。彼らはパウロが伝道した教会に後から入り込んできて、教会の人たちに、「割礼を受け、ユダヤ教の戒律を守らなければ救われない」と教え始めていました。パウロがその教えを信奉する人たちを「犬」とまで言うほどに、それは危険な教えだったのです。クリスチャンが間違った教えに逸れて行く時、真の救いの喜びもまた失われていきます。

パウロが教えた福音のメッセージは、「どこの国の誰であっても、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる。」という純粋な福音メッセージでした。放蕩息子が豚のにおいのするボロボロの姿で父のもとに帰っていったように、あるがままの姿で、イエス・キリストを信じる、救いの原点はそこにありましす。パウロが伝えた福音は、無条件のイエス・キリストの贖いによる救いでした。

けれども、ユダヤ教主義の人も私たちもまた、人間は、目に見えない信仰を目に見える儀式や戒律に置き替えるという間違いを犯しやすいのです。「信仰」というギリシャ語は「真実」とも訳される言葉です。神が私たちに真実だから、私たちも神に対して真実である。それが「信仰」であるとも言えます。それ故信仰は、人間の内面の最も深い部分に関わっています。けれども、私たちの多くは、内面の真実を追求することを疎ましく思い、不都合なことは隠しておきたいと思うものです。その点、儀式や戒律は一見窮屈そうに見えても、それが習慣になってしまうとさして苦労はなくなり、内面の信仰を問うよりも、外面の儀式を守り、戒律を守れる方向に流れてゆきやすい。その方が真実と対峙して生きるよりも、返って楽なことがあるのです。2節でパウロは、「肉体だけの割礼の者に気をつけなさい」と言っていますが、別訳で、「肉体を傷つけるだけの者に」とも訳され、内側よりも外側で頑張ることや、律法の隠れ蓑で自分の弱さを覆いたい人間の弱さが、ユダヤ教や異端に走らせてゆくことをパウロは警戒しました。

2. プライドへの注意喚起

そこで、パウロは肉(人間の頑張りや力)を頼みとすることへ警告を発します。(3節) 肉の儀式ではなく、「神の御霊によって礼拝し」(3)、肉の力を誇らず「キリスト・イエスを誇り」(3)とする人こそ真に神に属する者であり、肉体につける傷でなく、真の割礼の者であると言うのです。「キリストの恵みにより頼む」という姿勢に対して、「プライド」は強力にそれを阻んできます。プライドはしてもらうよりもしてあげることを好みます。時には、自分を犠牲にし、戒律を守ることを誇りとし、そこに特権意識を抱かせてゆきます。この在り方は、「行いによって人は神にでもなれる」という結論へ導いてゆきます。

そこで、パウロは肉の頼みとするものがないからそう言っているのではないことを自分自身を標本にして証明してゆきます。生粋のユダヤ人であり、しかも律法学者ガマリエルの門下生であり、豪商の息子でローマの市民権を持ち、肉の誇りというならば彼はユダヤ人社会のエリートでした。けれども、そのようなものは「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさゆえに、・・・ちりあくただと考えています」と喝破するのです。そのようなものは、本当の神の恵みを知れば、無に等しいと言うのです、

そこで、パウロは、9節で「私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」「キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(10,11)と、キリストにある真の希望を提示致します。ガラテヤ人への手紙2章19節、20節では、「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」と言っていますが、

内住のキリストによる復活の力、この真の喜びの発信源を力強く書き送るのです。

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