メッセージ 『しかし、見上げた人は生きた』
聖書 民数記21章4-9節(旧p277)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
「しかし、見上げた人は生きた」これは、どういう意味なのでしょう。聖書には、「仰ぎ見る人は生きた」と書かれています。そこで、「仰ぎ見る」ということばをネットで調べてみました。“「仰ぎ見る」には「上の方に目を向ける」という意味があります。また「見上げる」という意味もあります。「月を仰ぎ見た」という時は、上空に浮かぶ月に目を向けて見る」という意味があります。”と、書かれていました。かつて、「上を向いて歩こう」と言う歌がはやったことがありますが、今朝は心の目を天に向けてみましょう。
仰ぎ見れば生きる
イスラエルの民が奴隷の地エジプトから奇跡的に脱出でき、約束の地カナンを目指して旅をしていたときのことです。彼らの旅の宿営地に燃えるような赤い猛毒のヘビが侵入してきて、多くの人が噛まれて死にました。それは、イスラエルの人たちの40年の旅の終わり頃の出来事でした。彼らはそろそろ目的の地に差し掛かろうとしていたものの、敢えて遠回りの道を選択しなければならない事情に遭遇し、(20:14-21) 更なる長旅に、人々はうんざりしてきていたのかもしれません。「・・・パンも水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(5)とつぶやき、神とモーセに逆らったのでした。その時、彼らのテントに燃える蛇が現われたのです。
蛇は、創世記にも出てきます。人類最初の人アダムとエバは蛇に誘惑されて、不信仰の泥沼にはまってしまい、神様と親しく交わり潤っていた楽園の生活はひび割れし、壊れ、神様に対しては不信と恐れ、人に対しては罪のなすり合い、自分に対しては都合の悪いところは隠す生き方をするようになりました。こうして、人は罪の中に生まれ、罪の中で死んでゆく者になりました。 ※生まれながらに罪人 ローマ3:10-18,23
この時、彼らはモーセのところに来て、「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」と言ったのでモーセが民の為に祈ると、神は、モーセに命じて、青銅でできた燃える蛇を旗ざおにつけて高くあげさせ、「かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる」(8)と言われたのです。ここで神様が仰せられたことは、「蛇に噛まれない」ではなく、「蛇に噛まれる」けれども、旗ざおの蛇を「仰ぎ見れば生きる」と言うことでした。
主イエス・キリストの十字架と青銅の蛇
この事があってから約1400年後、地上に来られたイエス・キリストは、このできごとをとりあげて言われました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14,15)
ここで、主イエスは、上げられた蛇を自分自身とされました。主イエスは私たちの罪の毒ならぬ、罪ののろいをその身に受けて、十字架におかかりくださいました。モーセの時代、青銅の蛇を仰ぎ見て生きたように、今、私たちが、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見るならば、新しい神のいのちの回復が与えられるようになったのです。 「すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」ローマ5:19
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)。猛毒の蛇に噛まれた人に待っているのは死のみでした。けれど、毒蛇の毒に対処する血清注射があれば、毒に対抗でき死から免れるように、罪の中で死ぬだけだった者たちにも、今、主イエスの十字架という血清注射が備えられました。このお方を私の罪からの贖い主として見上げる時、罪の毒気に支配されていた状態から解放されて自由の人とされます。そして、死に至るいのちは、「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」を持つことができるようになったのです。
文明が発達した現代において、毒蛇にかまれた人に「上を見上げるならば大丈夫です」と言えば、「キリスト教も危ない」と思われてしまうでしょう。けれど、私たちの目が十字架に架けられたイエス・キリストを見上げる時、人が考えることのできなかった新しい生きた回復のわざが始まります。
使徒パウロは言っています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ2:8,9)