8月10日 礼拝メッセージ


メッセージ 『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』-湖上のキリスト-

聖書 マタイの福音書 14章22-33節(新p29)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

聖書学者のバークレーは、「聖者とは、絶対に倒れない人ではなくて、倒れても立ち上がり、前進する人である」と言っています。
今朝の聖書箇所は、パンの奇跡が行われてイエス様を称賛している人々を解散させてから、「イエスは祈るために一人で山に登られた。」(23)、そこからの展開です。ヨハネの福音書6章15節には、「イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れていこうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。」とも書かれています。人の期待から自由になるためにも祈りは必要でした。弟子たちもまた、目の当たりに、パンの奇跡を体験したことで、キリストに対する信頼度と期待度は大きく跳ね上がったに違いありません。神学校の教師をされていた向後昇太郎師は常々、私たち若輩の神学生に、「うそつきの嘘とためされない信仰ほどあてにならないものはない」とおっしゃっていましたが、イエス・キリストは、パンの奇跡の興奮もさめない中、すぐに、弟子たちだけを舟に乗り込ませて向こう岸に渡らせ、信仰の御訓練をなされたのでした。

「夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。」(25)
元漁師だった弟子たちは、舟の扱いには慣れていました。けれど、その日は、あいにく強い「向かい風」で、舟は前に進まず、夕方出帆したものの、夜中苦戦し、湖の真ん中あたりで、途方にくれて、夜明けを迎えようとしていました。その時、弟子たちは、湖の上を歩いて弟子たちのところに来られるイエス様の姿を見たのです。その姿を見て弟子たちは、イエス様が来てくださったと喜んだのではなく、「あれは幽霊だ」と恐怖の叫び声をあげたのです。その弟子たちに、キリストは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と御声をかけられたのでした。

ここでの、「わたしだ」という言葉は、ギリシャ語で、「エゴ・エイミー」(わたしはあってある者)。この言葉は、出エジプト記3章の燃えるシバの中からモーセに御声をかけられた時に語られたことばと同じことばです。(3:14) 嵐の湖上で、恐れる弟子たちに「わたしだ」(エゴ・エイミー)と言われたことは、イエス様がご自分は天地創造の父なる神と一体であるということを表現していたと解釈できます。
するとここで直情型のペテロはすかさず、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」(28)と言いました。イエス様はそのペテロの願いをそのまま受け入れ、「来なさい」と、応答。「そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った」(29)のでした。

「来なさい」と言われたキリストのことばを真っすぐに受け止めたペテロは、海の上を歩くことさえできました。けれど、強風の煽られ波立ち足下が揺れ動き始めると、途端に、「沈むかもしれない」と恐怖に煽られたのでしょう。そのペテロにキリストは、「強風をこわがらなくてもいいよ、私が守ってあげるから」とは言われず、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたのでした。

「疑い」、この言葉は、もともと二つの方向に進んでいくことを意味することば。「二心」を辞典でひくと、「心を二通りに持つこと」「不忠な心、謀反の心、疑いの心」と書かれています。ヤコブの手紙1章6、8節には、「疑う人は、風に吹かれて揺り動く、海の大波のようです。・・・そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」と書かれています。ペテロは強風に煽られたとき、一方においては、キリストの「来なさい」と言われた御言葉の方に向かい、もう一方の心は強風で揺れ動く波に向かうのです。心が二つに別れたとき、ペテロは沈み始めたのでした。

沈んでいくことは恐ろしいことです。私たちもペテロのように、「自分が沈んでいく」ということを様々な形で経験しています。時に、安泰であったり、また時に、信仰が揺すぶられ不安のどん底に陥ることを体験しながら生きています。けれども、逆に、危機的な情況に陥る時には、むしろ、二心ではいられなくなり、一心に助かろうとして、キリストを叫び求めはじめます。実はこうした時もまた、神様が備えられた御訓練の時であることがあります。へブル人への手紙12章5-11節には、キリストは、受け入れる全ての子をご訓練なされると書かれています。無謀と思えるペテロの願いを受け入れ、おぼれかけれると「自業自得」とは言われず、すぐに手を差し伸べてくださる。そのようにして、キリストの元に来た者たちは一人として漏れることなく、弱さの極みを知らされつつも、「わたしだ。恐れることはない」と、主の愛の御声で信仰が育まれてゆきます。

このガリラヤ湖では、北ないし北東から吹き降ろす突風が、しばしば小さい嵐をまき起こしました。この現象は天気が良い時にも突如みられました。それは、ガリラヤ湖が海面下200メートルという低い場所にある所から、天気の良い日には太陽が上空の空気を熱して空気が上昇し希薄になり、湖の両面の斜面から、突如、突風が吹き降りしてくることがあり、その突風が激しい嵐になるということです。イエス様はそうした自然現象もすべてを駆使して愛する者たちを御訓練されました。なぜでしょうか。使徒ヨハネは言っています。「私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(ヨハネの手紙第一5:4,5口語訳)と。主の愛の御手の中で養われ育てられる人たちはなんと幸いなことでしょうか。

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