メッセージ 『放蕩息子の帰る場所』
聖書 ルカの福音書15章11-24節(新p149)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
「放蕩息子」この話しは、イエス・キリストが、神様が人間に対して抱いている気持ちを様々な譬え話を通して話された中の一つの物語です。芥川龍之介はこの話しを世界で最高の短編小説と言いました。
放蕩息子物語(概要)
ある人に二人の息子がいました。ある時、弟の方が父親に、「私が相続する予定の財産を分けて欲しい」と言いました。願いがかなうと、彼は幾日もたたないうちに財産をまとめ、遠い国に行ってしまいました。そこで、彼は放蕩に身を持ち崩してしまいました。気が付くと一文無しになっていました。おちぶれた彼に声をかける人もいなくなりました。
さらに、その地方に飢饉がおこり、彼は食べるものもなくなり、知り合いを訪ねました。そこで与えられた仕事が豚の世話をすることでした。養豚の仕事が卑しいとか汚れているというわけではありませんが、ユダヤ社会にとって、豚は汚れた動物とされていましたから、その世話をするということは、この若者がいかにみじめな境遇に陥っていたかがわかります。けれど、その苦境のどん底で彼はわれにかえったのでした。
この譬え話から次のことを知ることができます。
1.息子と父の思い
息子と父の関係、またその思いはどのような状態だったでしょうか。息子は財産を譲り受けて後、「遠い国に旅立った」と書かれてるところから、息子にとっての父親は自由を奪う窮屈な存在でしかなかったとも考えられます。それ故、関係をはやく断ち切って、父のいない遠い国で自由に自分がしたいことをしたかたのかもしれません。
ここでの父は父なる神を表しています。私たちもまた、天の父なる神様から全てのもとを受けています。この世に存在している命そのものも、能力も全て、与えられたものでした。自分でつくりだしたものではありません。けれど私たちは、それはもともと自分に与えられた自分のもので、自分が自由に使うことは当然のことと思っています。
放蕩息子は、父親から自分がいただく分の財産を受け取って、遠い国に行き、そこで、その財産を使い果たしてしまいました。その上、一文無しになったところに、飢饉が来て、食べる物もなくなって、彼は初めて本心に返り、父の家にあった豊かさに気がついたのでした。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることだろうか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。」(17)と言っています。そこで、彼は父の家に帰る決心をしたのでした。彼は飢饉を通して、初めて、父のもとにあった大切なものに気がついたのでした。私たちもまた、人生の飢饉を迎える時があります。その時になって、初めて気が付くことがあります。飢饉は弟息子にとって、我に返る転換線となりました。
※教会から離れた時の証
2、父なる神の思い
父の思いは息子が帰ってくることでした。息子は窮屈な父を嫌っていたかもしれませんし、たとえ息子が父のもとを離れていなくても、その関係は決して良好ではなかったかもしれません。真の関係の修復は、本人の意志で帰って来ることにあります。父の真の願いは弟息子との正しい関係の回復にありました。私たちもまた、天の父なる神のもとに帰る時、弟息子の様に、「立って、父のところに行こう」(18)と自分の意志で決心しなければなりません。私たちには自由意志が与えられています。神を神として認める、そこに私たちと父なる神様との真の関係の回復があります。
息子の帰りを待っていた父は、「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(20)のでした。この世の評価は、何をしたか、どれだけのことができたかで高くも低くも評価されます。しかし、神様の評価は、できるできないでなく、神の御前にあるかどうかが一番重要なのです。神の御前からいなくなったその時から、その人の存在は神にとっては失われた存在であり、死んでいることと同じなのです。ですから、帰って来た弟息子は、父にとって、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」(24)と、生還の喜び溢れたのです。霊なる神の御元に帰ってきた時、霊の祝宴が始まります。
3.道であるキリスト
帰ろうと決心しても、道がなければ帰ることができません。その道となってくださったのがイエス・キリストです。イエス・キリストは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ。だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6) また、主は言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13,14) 弟息
子は、全財産と引き換えに帰る道を見出しました。神から与えられた人生の全ての時間と賜物をもってでも、神を見出すことができるならば、なんと幸いなことでしょうか。