5月18日 礼拝メッセージ

メッセージ 「みこころを喜ぶ」

聖書 詩篇40篇4-8節(旧p973)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

詩篇40篇は、ダビデが苦境の中で、過去の恵みと、それに対する自分の行動を振り返りながら、神に助を求めている時につくられた詩です。40篇の主題は、神のことばを聞くことができるようになる為に「霊の耳が開かれる」ことです。ローマ人への手紙10:17には、「信仰は聞くことから始まり・・・」と書かれていますが、霊の耳が開かれる時、神のことばに従うことができます。その時、神の恵みを歌う新しい歌(主への讃美)が生まれます。礼拝の出発点もまたここにあります。(3,6,9)
40篇全体を、1-11節の「神への感謝」と12-17節の「苦しみと嘆き」の2つに大きく分けることができます。特に、前半部分に書かれている神への感謝と神のみこころを喜ぶということが、この詩の主要部分になります。この40篇を読む時、苦しみの中にある人も、神のみこころの道を歩む時に神の助けが備えられていることの確信を得ることでしょう。

犠牲のささげものでなく
詩の流れを通して、みこころの大切さを知ることができます。
4節 「幸いなことよ 主に信頼を置き 高ぶる者や 偽りの傾く者たち方を向かない人。」
5節 「あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らい」
神に信頼する人の幸福は、神の摂理的配慮と無数の恵みに与るところにあるが、神に信頼を置かない人は、金(ヨブ31:24)、偶像(エレミヤ48:13)、馬や戦車(Ⅱ列18:24)を頼る。
6節 「あなたは いけにえや穀物のささげ物を お喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。…」
6,7節 新共同訳「わたしの神、主よ あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。私たちに対する数知れない御計らいを わたしは語り伝えて行きます。あなたはいけにえも、穀物の供え物をも望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」

(Ⅰサムエル15:22,23)「主は全焼のささげ物やいけにえを、主のみ声に聞き従うことほどに、喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」     
サムエル記第一のこの箇所は、サウル王の従順における失敗が記されています。サウル王は祭司サムエルがなかなか来ない時に、全焼のささげものと生贄を自分の手でささげてしまった。サウルは時間や様々な事情を考えて行ったことでしょう。サウロ王はまた、「聖絶」ということばを、自己流に解釈して、アマレク人の戦勝品のうち良いものは残しておき、それを主への生贄としてささげようとしていました。けれど、それは、神の求めていた「聖絶」の内容とは違っていました。彼は神のことばに全く従うという意味がわかっていず、ことの重大さもわかっていませんでした。私たちもまた、人間的にどんなに良いと思う事柄であっても、自分流の理解をもって神の事柄に手をつけることを注意しなければなりません。サウル王は神が祝福された器でしたが、正しくみことばに従うことができなかったために、その祝福は彼のもととはなりませんでした。みことばを聞く霊の耳が開かれることこそが、私たちの人生を祝福に導く鍵なのです。
7節 「そのとき 私は申し上げました。」耳が開かれて神のことばが理解できた時のことです。
8節 「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは
私の心のうちにあります。」
 1900年代、世界で用いられたカナダの説教者オズワルド・スミスは、著名な『神に用いられる人』の書き出しで、次のように書いています。「1927年11月8日は、わたしの38回目の誕生日でした。その日わたしは、『主よ、わたしをあなたのみこころに従う者としてください。』と祈りました。働きもやがて衰微し、初めは大切に見えた事がらも価値を失い、興味をいだいていたこともいつしか二次的なものとなり、今やわたし自身の神の前における内的生活だけが関心ごととなり、真に価値のあるものとなってきたのです。わたしは、ゆっくりと書斎の中を歩きながら、この日一日を祈りに費やし、『主よ、わたしをあなたのみこころに従う者としてください』と、聖霊によって祈り続けました。」と。みこころを行うということは、このような著名な神の器をもひたすらにそのことを願うほどのめぐみの高嶺を歩むことなのです。
しかし感謝なことに、栄光教会はみこころを喜ぶ主の聖徒たちの群れとされています。一人の姉妹は死のまぎわで、「あとは、みこころが行われることだけを願っています」と言われて天にかえられ、またある方は、愛する家族がどこの病院に迎えられるか心配して祈っていたところ、意向とは違う病院が決まってゆくで、「しかし神様はそこからどのように導いてくださるかを祈ることができる」と、主のみこころを信じて委ねられてゆく姿の中に主が映し出されています。
使徒の働き16章では、力強く宣教したパウロたちが受けた報酬は、足かせをはめられて「奥の牢」に入れられることでした。この「奥の牢」は死刑になる人たちが入れられるところでしたが、絶対絶命の中で地震が起こり、獄吏一家が救われ、ピリピ教会の基礎はますますしっかりと固められてゆくことになったのです。「みこころを喜ぶ」人生の真の喜びがここにあります。

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