メッセージ「主イエスの招き」
聖書 ヨハネの福音書21章18-23節(新p230)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
イースター後の弟子たち
イースター後の弟子たちの様子を、ヨハネの福音書21章で見ることができます。
3節でシモン・ペテロは、「私は漁に行く」と他の弟子たちに言っています。それは決して、福音宣教のための資金を得る為に働く、と言った理由ではありません。ペテロを始めとして、お弟子たちは、主の弟子としての働きは一先ず終了して故郷に帰り、以前の漁師の仕事に戻ってしまったかのように見える場面です。復活の主にお会いして大喜びしたはずの弟子たちも、実生活においては、これからの人生をどう立て直して良いのか、皆目見当がつかない状況だったのでしょうか。21章での状況は、三年前、ガリラヤ湖畔で漁をしていた彼らにキリストが近づいてこられた時と同じような光景でした。(マタイ4:18-20、ルカ5:1-7) 収穫も無く、岸辺に辿り着いた彼らに復活のキリストは近づいて来られて、お声をかけられました。三年前と同じように、弟子たちがイエス・キリストの言葉の通りに網を打ってみると、おびただしい数の魚が網にかかり、大漁を得たのです。面白いことには、この時、大漁であったにも関わらず、陸地に上がると、焚火が炊かれ、その上にはすでに別の魚が用意されていて、パンまで備えられ、朝食の準備が整っていたのです。全てが備えられた中で、復活の主の顕現に弟子たちは、ここで三度目のお出会いをしたのでした。
復活のキリストの招きに応えるペテロ
使徒ヨハネは、食事の後になされたイエス様とペテロの会話を詳細に記述しています。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」(15)。「わたしの子羊を飼いなさい。」(15)。こうした問答が三度イエス・キリストとシモン・ペテロの間で交わされます。この場面もまた、ペテロが「私はキリストを知らない」と、三度否んだ時のことを思い起こさせます。この時のペテロの心情を詳訳聖書は次のように記しています。
「ペテロはイエスが三度目には[そのようなことばで]「わたしを愛しているか」と尋ねられたというので悲しんだ<気に病んだ>。そしてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることは<私があなたに親しい友に対するような深い、人間固有の、人格的な愛情を持っていることは>あなたがご存じです』」。(17)
ここで、「ペテロはイエスが三度目には[そのようなことばで]「わたしを愛しているか」と尋ねられたというので悲しんだ」とヨハネが書いているのは理由があります。それは、一回目も二回目も、主イエスの問いかけは、「人がみ父を愛する場合のような、霊的な献身をもって私を愛するか」即ち「アガぺするか」と問われたことに対して、ペテロは、「私の愛は、神の愛(アガぺ)には及ばない、人が人を愛するような愛(フィレオ)でしかないことをあなたはご存じです。」(※15節)としか答えられなかったからです。そこで、三回目の問いかけは、イエス様の方がペテロの思いに合わせて、「あなたが人を愛するその愛で私を愛しますか」(※アガぺをフィレオに変えて」と問われたのでペテロは一層心が痛んだのでした。
十字架を前にして逃げ出してしまった自分が思い出された事でしょう。悔やみながらも、それが、今のペテロが真実にイエス様にお応えできる最大の愛の応答だったのです。自分の弱さを知ったペテロに復活の主は告げます。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18)。けれども、「わたしに従いなさい」(19)と。弱さと痛みの中にあるペテロを、イエス・キリストは更に苦しみと痛みを負うかもしれない、十字架の道へと招かれたのです。
主に従ってゆく先には十字架があるのみと聞かされたペテロのこの時の心境はどのようだったでしょう。大祭司の庭で焚火にあたっている人たちに混ざって、捕縛されてゆく師を見ながら、「私はその人を知らない」と三度も主を否む自分を思い出し、ここでも早く逃げた方が良いと思ったでしょうか。「他の人たちはどうなのだろう」と思っても不思議ではありません。思わず、「主よ、この人はどうどうなのですか」と尋ねるペテロに主は答えられず、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22)とだけ言われたのでした。
主イエスの招きは十字架の道
「あなたは、わたしに従いなさい。」とペテロを招かれた主は、今、私たち一人ひとりに向かっても、「あなたは、わたしに従ってきなさい」と御声をかけられています。私たちには、その十字架の道を選ぶことも、退けることも、避けることもできる自由が与えられています。
ペテロが「この人はどうですか」と言ったヨハネにはペテロとは異なる召命の道が与えられていました。主に従っていったペテロは新約の教会を率いる大牧者となり使命を全うし、ネロの迫害のもとで殉教していったと伝えられています。ヨハネはヨハネでセントパトモス島に流刑されるという苦難を経た後、「ヨハネの福音書」や「黙示録」などの書簡を書き重要な使命を果たし、小アジアのエペソで死んだと言われています。一人ひとり歩む道は違いますが、あなたは、この主の招きにどのようにお応えされますか。