メッセージ 『すると彼らの目が開かれ』
聖書 ルカの福音書24章28-35節(新p173)
メッセンジャー 高江洲伸子牧師
- 目がさえぎられて
エマオに帰る二人の弟子。彼らは、イエスの復活の出来事を聞いていました。(マルコ16:9-12) 復活の出来事は、四福音書に出て来ます。福音書を読み合わせて見れば、マグダラのマリアに最初に現れ(マルコ16:9,ヨハネ20:11-13)、続いて、もう一人のマリア(マタイ28:9)に現れ、ペテロに(ルカ24:34)現れたことが分かります。復活の日の夕方には、隠れ家に身を潜めていた弟子たちにも現れています。ですから、エマオに向かう道で、二人の弟子に現われた時刻は、夕方に弟子たちの隠れ家を訪れる前の頃だろうと思われます。ところが、なぜか、復活のキリストに出会った二人の弟子も、マリアもすぐにはそれがイエス様だとわかりませんでした。なぜでしょう。
マルコ16:12には、イエス様が「別の姿でご自分を現わされた」と書かれています。興味深いことには、マグダラのマリヤは、復活のイエス・キリストを「園の管理人」(ヨハネ20:15)だと思ったと言うのです。以前の見慣れた面影とは風貌が違っていたのでしょうか。ルカは、「二人の目はさえぎられていて、イエスであることがわからなかった」(16)と書いています。新約聖書原典ギリシャ語の「(目が)さえぎられて」という言葉は、「クラテオー」ですが、名詞では「クラトス」。この言葉は「力、支配力、統治力、強さ」を表します。ですから、この時二人の弟子は、ある力によって支配されていたと考えることができます。
コリント人への手紙第二4章4節には、「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」と書かれています。この時の二人の弟子は、キリストが十字架で死んでしまったことに対する「失望」というこの世の神が、思いも目も暗くして、復活のキリストを認めることができなくしていたのかもしれません。4節を詳訳聖書は次のように訳しています、「なぜなら、この世の神が不信者の心を<真理を認めることができないように>盲目にし、彼らが神の形《似姿》であるキリスト《メシア》の栄えある福音の輝く光を見ることができないように妨げているからです。」と詳細に訳しています。
2. 開かれた霊の目
ところが、彼らの目を塞いでいたものが取り去られる時が来ます。「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24:30.31)
「目が開かれ」、この言葉は、創世記3章で、人類の祖であるアダムとエバ夫妻が禁断の木の実を取って食べた時にも起きたことでした。そこでは、「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。」(創世記3:7)と書かれています。この二つの目の開かれ方は対照的です。目が開かれたアダムとエバは、自分たちが裸であることを知り、裸の恥を覆うようになりました(創世記3:7)。そして、神様を避け(創世記3:8)、エデンからの追放に至り、今もその中に人類はいるのです。ところが、エマオ途上の弟子たちは、主の聖餐によって目が開かれ、復活のイエス・キリストとまみえることができました。聖餐式は主イエス・キリストの十字架と死を表しています。主の十字架の死によってアダム・エバ依頼引き継いできた「この世の神」の支配から解放される時が訪れたのです。
イエス様はエマオ途上の二人に、「キリストは、必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入る」ということを、聖書全体を通して説き明されました(24:26-27)。旧約聖書のメシアに関する箇所を次から次へと引用しながら、それらを密接に関連づけ、次々と神のご計画を説き明かしていったことでしょう。旧約聖書に記されている事柄がイエス・キリストの死と復活で結び合わされる時、それまではバラバラであった聖書知識が一つの糸を紡ぐように結び合わされてゆき、見えていなかったことが見えるようになります。みことばが説き明かされることによって、聞く人々は「心燃ゆる経験」をするのです。二人の弟子たちは感動をもって、「道々お話になっている間も、私たちの心は燃えていたではないか」と言うことが出来たのでした。(35)
「心が燃える経験」をした二人の弟子は、目的地に着いても、もっと話を聞きたいと(イエスを)自分たちの家に「泊まるように」と強く願ったのでした。聖書を更に知ろうとして尋ね求めようとし、み言葉の奥義が開かれてゆくにつれて、さえぎられていた目が開かれてゆきます。(詩119:130) みことばが説き明かされて心燃える経験は聖霊のみわざです。福音書においてもイエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8:8)と叫ばれています。
更に、目が開かれる上で大切なことは自発性です。二人の弟子たちはイエス様に「ご一緒にお泊まりください」(29)と強く勧めました。これは、私たち一人ひとりが、真に神との親しいかかわりを持ちたいと願っているかどうかです。
霊的な目が開かれなくてはイエスの復活の事実を確信することはできません。私たちもまた、詩篇の記者が「私の目を開いてください。」(119:18)祈ったように、まず祈りから始めさせて頂こうではありませんか。