4月13日 受難週(パームサンデー)礼拝メッセージ

メッセージ「受難のイエス」

聖書 イザヤ書53章4-12節(旧p1259)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師

イザヤ53章参考図書小林和夫著「イザヤ書講解説教」

受難週を迎えました。イエス様の十字架を覚える週です。

イザヤが預言したイスラエルのバビロン捕囚と解放は、約100年近い時を経て現実になってゆきました。けれども聖書の記述は、イスラエルという一国家だけの事ではなく、全世界に向かって神様から発信されているメッセージです。その聖書の中でイザヤ書53章は大切な箇所です。一語一語読むだけで、イザヤの死から約750年後に起こったイエス・キリストの誕生と死がリアルに預言されています。「見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」(2)実際そのようなお姿で、イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋で誕生され、十字架の上でお死に下さいました。受難週を迎えて、今一度、イザヤ書53章から、イエス様のご受難の意味を深く心に銘記させて頂きましょう。

1-7節 罪の身代わりの小羊となられたイエス・キリスト

5節「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」

「私たちために」という言葉が重ねて出てきます。英語で「for us」。この「for」は「代わりに」とも訳されます。小林師は「イザヤ書講解説教」下(p198)で次のように言っています。「神が全人類の不義を、罪を彼の上におかれた。彼はわれわれのために、われわれに代わって神に打たれた。その打たれた傷によってわれわれはいやされたのだ。イザヤはこの受難のしもべのなすそのみわざを750年も前にすでにこれを見てとったというのがここの意味です」と。その受難のしもべイエス様が、私の代わりに十字架の上で刺され、砕かれ、懲らしめを受けられたと信じる人は、救いの証しである平安と癒しを受けとります。

7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を切る者の前で黙っている雌羊のように。彼は口を開かない。」

イスラエルの人々はエジプトの奴隷状態から解放される時、小羊が殺されて家の玄関の柱にその血が塗られました。その血を見て、エジプト全土を滅ぼす神の裁きから守られて脱出することができました。彼らの出エジプトは、玄関の柱に塗られた小羊の血の力によって実現されました。レビ記では、毎年イスラエルの人々が神の前に、罪を赦していただくために2匹の山羊をとってきて、1匹の山羊を殺し、もう1匹の山羊に自分たちの罪を告白して負わせて野原に放った「アザゼルの儀式」というのがありました。(レビ記16章) この殺された山羊はいけにえとなる羊をあらわし、生かして荒野に解き放たれた山羊は、罪を負ってその罪を処分していく生けるキリストを表すと言われます。」「イザヤ書講解説教」下(p199)バプテスマのヨハネは、イエス様を見た時、「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の小羊」と、言いました。「過ぎ越しの小羊のように、アザゼルの山羊のようにこのお方が罪の身代わりに屠られることによって、世界の罪が除かれる時がくる、いやすでにきたのである。」とヨハネは言ったのです。

8-12節 身代わりの意味と目的

10節「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを 代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

義なるしもべが身代わりになることによって、11節「多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」と言うのです。義とされるとは、罪を犯したことのない者、正しい者として神に受け入れられるということです。使徒パウロは、「あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ2:8-9)と言いました。イエス・キリストの十字架上で支払ってくださった罪の代価によって、神様は罪人であっても義と認めて下さいます。ただ、十字架の贖罪を信じるというだけで。

8節「彼の時代の者で」口語訳「その代の人のうちで」の「代(generation)」はヘブル語で「くじを引く」「運命」「計画」とも訳される言葉。また、「運命の逆転」とも訳され、「だれがこの人の運命が逆転されるということを思った人があるだろうか」と訳されるべきと言う人もいるそうです。53章の「しもべ」は、「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」父なる神のお心に従って、黙々としもべの道を歩みました。「…しもべはまさか生かされるなどということは少しも考えないで、ただひたすらに父に従って行きますときに、神はそのしもべの生涯を死の世界に放置されないで、そのしもべの運命を逆転させて、その死の中から彼を復活させて、これを生かされるのだというのです。これが8節の言葉に隠された意味であろうと多くの学者はいうのです」と小林師は記しています。ドイツの神学者C・ヴェスターマンは、「これは神のしもべに対する神の介入である」と言いました。イエス様は黙々と神に従って、神に打たれる道を進んで行かれましたが、父は黙ってお見過ごしになさらず、「運命の逆転」を与えて、彼を死のどん底から甦らせ、多くの人が彼を信じて救われる道を開かれたのです。この主の御足の跡を従ってゆく者

たちの生涯を神は決して捨て置かれません。この道は運命を逆転させる道なのです。

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