4月6日 礼拝メッセージ

メッセージ『礼拝の喜び』

聖書:ヨハネの福音書4章21-24節 (新P182)

メッセンジャー 高江洲伸子牧師
「喜び」は神様からの賜物です。イエス様は十字架前夜、惜別説教の中で、「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:22) 「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ16:24)と言われました。ここから、イエス様は私たちがいつも喜びに溢れていることを願っておられることを知ることができます。そして、その喜びの根源を礼拝の中に見出すことができます。
「真の礼拝者」
礼拝についてイエス様は、サマリアで出会った一人の女性に、「真の礼拝者たちが、御霊と真理によって礼拝する時が来ます。・・・神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)と言われました。イエス・キリスト誕生以前のユダヤ教の人たちの礼拝は、エルサレムにある神殿で、律法に従って、人間の罪の贖いとして、動物を犠牲をささげて礼拝をしていました。けれども、イエス様が十字架上で真の犠牲となられたことによって、それまで儀式的に動物を犠牲としてささげていた礼拝から、御霊と真理による礼拝をおささげすることができるようになりました。それ故、今、私たちが真実な礼拝をおささげするために、御霊が必要とされています。
「霊的回復の道」
イエス様が出会ったサマリアの女性は、愛を求めて5人の男の人と結婚しましたが、それでも心の渇きを止めることはできませんでした。人生の喜びに飢え渇いているこの女性にイエス・キリストは、世が与える水である、この世の喜びでは満たし得ない人間の奥底にある求めに対して、「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)と、魂の満足を与え得ることができる唯一の霊の水を差し示されたのです。
これは、サマリアの女性だけのことではありません。人間はもともと神の霊を持つ者として造られたにもかかわらず、最初の人アダムが罪を犯してしまったことで、人類に罪が入り、(悪いウイルスが入ってきたように)罪が人間を支配するようになってしまいました。罪が入ってきたことによって、霊なる神様との交わりが断たれてしまいました。それを霊的死と言います。霊的に死んでしまった人間は、神様も、神様の恵みも分からなくなってしまい、「御霊と真理」による礼拝をおささげすることができないでいます。
ですから、神様を心から礼拝するためには、神の霊を持たなければなりません。どうしたら持つことができるのでしょうか。イエス様はパリサイ人のニコデモに対して、このように言われています。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見る事は出来ません。」(ヨハネ3:3) 「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5.6)と。
そうです、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。そのためには、霊の流れを止める絶縁体のようになっている罪を悔い改め、人間の罪の身代わりに死んでくださったイエス様を信じ受け入れることによって、霊なる神様と交流与えられるようになりました。これが神の示してくださった唯一の霊的な回復の方法だったのです。聖書はこれを救いと言っています。「イエス様が私の罪の身代わりに十字架の刑罰を受けてくださった」と信じて告白することで、スイッチを入れると電気が流れるように、最初の人アダムが失った霊なる神様との霊による交わりがこうして回復され、霊とまことによる礼拝をすることが出来るようになったのです。
「礼拝の喜び」
ヨハネの福音書4章で、サマリアの女の人が、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。」(25)と言ったことに対して、イエス様は、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26)と言われました。彼女はそれまでも主が目の前におられたのに、それが主であることがわかっていませんでした。私たちも毎週日曜日に教会に来て礼拝をささげていながらも、ここに主がおられることがわからないということがあります。けれど、罪が赦され霊の目が開かれる時、それがわかります。(参考ルカ24:15-16、30-32)
  歴代誌第二5章でソロモン王の建てた神殿は完成し、賛美が湧きあがる中で奉献礼拝が行われましたが、その時、「雲がその宮、すなわち主の宮に満ち」(13)、祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができないほどでした(14)。クリスマス、東方の博士たちは何故黄金と没薬と乳香を携えてベツレヘムの馬小屋を訪ねたでしょう。仁科先生が死の病と戦いながらも礼拝に出席されたのは何故でしょう。霊とまことによる礼拝以上に私たちの内なるものに満足を与え喜びを来らせるものを人は見出すことができません。

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