3月30日礼拝メッセージ

『荒野に道を、荒れ地に川を』

聖書 イザヤ書43章16-21節(旧p1239)

メッセンジャー:高江洲伸子師

エレミヤ書1:11、12
「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」
エレミヤの召命の言葉です。この時エレミヤが見た「アーモンド」(別名 あめんどう)は、他の植物に勝って、いち早く季節に敏感に反応する特徴があり、1,2月頃に他の木に先立って冬の眠りから醒めて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ「目覚めの木」とも呼ばれています。これは「よみがえりの初穂」を象徴しています。「あなたの見たとおりだ。」は、「よくぞ見たものだ」とも読み取れることばで、主の思いと、主と同じところに目を向けているエレミヤとの思いが一つになっていることを思って、主は喜んでいるというニュアンスがある言い方です。「見張っている」(原語 シャーカド)は、注意深く期待して待っているという意味で、神の関心は神の民を滅ぼすことではなく、あくまでも、神の民を回復させることに関心があることを表わしています。

イザヤ書43:18,19
 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」 
 「荒野」は、道がないので荒野と言われ、「荒地」は「砂漠」とも訳されることばで、川がないので砂漠になります。あるユダヤ教の教師が書いた注解書には、「荒野に道が通じるとか、砂漠に川が流れるということは、紅海の水が二つに分かれて陸地になり、そこを通るよりも、もっと偉大なわざだ」と書かれているほど、常識では考えられない「新しい事」を神はしようとしているというのです。「荒地に川を設ける」、ここでは「水」が重要視されています。神の国において「水」は、神の「いのち」「真理」「喜び」「主の霊」とも関係するきわめて重要な語彙です。興味深いことに、創世記2章のエデンの園の「エーデン」のへブル語の意味は、「豊かな水のあるところ」を意味しています。
 出エジプトの際、モーセが率いる神の民は、紅海の水の中にできた道を通りぬけることができました。荒野から約束の地カナンに入場する時も、ヨルダン川にできた通路を渡ることができました(16)。けれど、良きみわざもすべて含めて、「先のことを心に留めるな。昔のことに目を留めるな。」(18)と、歴史の舞台の中で驚くべきすばらしみわざを現わされたそのような過去の出来事をも「思い出すな」「考えるな」と命じています。そして、以前のことをはるかに超える「わたしがする新しい事」を「知る・悟る」ようにと諭しています。
 「古いことは、たとえそれがどんなに良いものであっても、それにしがみついているようだと前進はありません。そういう意味で『さきの事』や、『いにしえのこと』というのは、『出エジプト』のことでありました。そして、この『新しい事』というのは、昔エジプトから民が救い出されたように、『出バビロン』ともいわれるような新しい神のみわざが民の上になされることです。すなわち、イザヤがこのことを預言してから約200年後に、この民たちはバビロンに捕らえ移され、さらにそのバビロンからの解放が起こるということを、200年も前にイザヤはいいました。これが『新しい事』であります。・・・古い過去の栄光にしがみついているのではなくて、神に向かっていつでも新しいわざを期待していくべきであるということ、その期待のないところには何も起こってこないのだということを、イザヤは言おうとしたのです。」とは、小林和夫師。(「イザヤ書講解説教」下p80-81) 

 春が来ると植物の大小に関わらず、芽吹いてきます。この芽吹きは、冬のさ中で、すでに、枝の内側にはその兆しはあったものでした。エレミヤがアーモンドの枝を見るよりも早く神様はその枝をご覧になっておられ、エレミヤに季節の変化に気づかせようと語りかけ、真冬のような最悪の状態の中で春がすでに始まっていることを告げているのです。神の命が宿る者たちの将来は最悪の中でも新しい春を迎える準備が始まっています。
イザヤ書が小さな聖書と言われる所以は、66巻と66章の語呂合わせというだけではありません。約200年後に起こるバビロン捕囚と解放の預言と共に、約700年後に起こるメシア誕生の預言が各所に出て来るところに見られることろにもあります。「見よ、わたしは新しいことを行う。」とは、イスラエルの神の裁きと回復という一民族の為の預言をはるかに広げて、全人類の罪の捕縛からの解放、更にキリスト再臨をも告げているのです。
小林師は次のようにも言っています。「バビロンの解放が200年後に起こるであろう。しかしその後、世界に人類をエジプト王のパロの圧制でもなく、バビロンの王ネブカデネザルの圧制でもない。この世を支配し、人間を永遠の滅亡に陥れてしまう罪という主人公の奴隷になっている私たちを解放し、私たちをその罪から救い出して、神の子として永遠の神の御国に入れることができる。そういう救いのみわざがメシアによってなされるということを・・・語っているのです。」と。

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