『救出への道、神の方法』
聖書:使徒の働き12章1-11節(新p257)
メッセンジャー:高江洲伸子師
12章ではヘロデによる激しい迫害の様子を知ることができます。ヘロデは「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し」(2)、ペテロを捕らえて牢に入れましたが、その様子は、「四人一組の兵士四組に…監視させ…二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。」(4-6)と、非常に厳しい監禁状態の中で、ペテロは絶対絶命の状態にありました。
かつて、復活されたイエス・キリストはペテロに「あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(ヨハネ21:19)と言われていました。ヤコブに対しても、「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。」(マタイ20:23)と言われていて、ヤコブは実際ここで「死」という苦き杯を飲むことになりました。けれどもペテロはここでは神様の御手によって、救出されることになります。神様は、一人は殉教に導き、一人はその大変な捕縛から脱出させることによって栄光を現わされたのでした。背後では教会での熱心な祈りがありました。(5)
バックストン使徒行伝講義は、「『ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜…。』これはペテロの生涯の終わりの晩であるあるはずでした。彼はヘロデの手に固く握られているように見えました。迫害者の手の中に固く縛られて、その翌朝は殺されると思われました。けれどそうではありませんでした。ペテロはヘロデの手の中にあるのではなく、実は神様の御手の中にありました。」この時、ペテロは、主の使いが脇腹を突いて起こさなければならないほど熟睡していたのです(7)が、そこもまたペテロには、神様の御手の中でしかなかったのです。
日課「聖書と共に歩む日々」(22日)は、「ユダは主を信じ切れず、サタンは彼に入りました。」また、F・Bマイヤー「今日の力」は、「むやみな憂いは捨てよ。むしろ、手を休め、目をつぶって、主にまかせよ。それができないところに、あなたの不信仰がある。自己主義がある。主はあなたが眠っている時にも、なくてならぬものを与えておられるのに。」と書かれていました。
また、ここで思い出されるのは、北朝鮮のクリスチャンの人たちのことです。北朝鮮の兵が1人450万円でロシアに売られていったということを知った時には、本当に驚きました。けれども、更に驚いたのは、兵隊の人たちは、むしろ志願してロシアに行く人が多いというのです。それは、北朝鮮では、食べるものも十分に与えられないが、ロシアには食べ物が十分あるからというのです。迫害下で祈っている北朝鮮のクリスチャンの人たちの祈りと共に、38度線を超えたところでは韓国のクリスチャンの人たちの熱い祈りが積まれてきています。そのような中で、朝鮮からロシアに行った兵の人たちが(全員そうであるというのではありませんが、)ウクライナで捕虜とされることによって亡命し、自由を得ることができるというのです。私はこのことを知った時、本当に聖名を崇めました。キリスト者の兵にとっては、ロシアに行くことは絶好の脱出の道とされる神の方法だったのです。
12章では、ペテロの救出の為に御使いが遣わされました。「すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。御使いは彼に言った。『帯を締めて、履き物をはきなさい。』ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。『上着を着て、私について来なさい。』そこでペテロは外に出て、御使いについて行った…彼らが第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。」(7-10)
ここで気が付くのは、ペテロがしなければならないことと、御使いがすることとがあるということです。ペテロは御使いが言われるまま自分がしなければならないことを淡々としていっているだけでした。十人が監視している目がある中での脱出、鍵のかかった鉄の門を開けることなど、ペテロの力ではとうていできないことですが、ペテロができないことは御使いがしていることです。このことから、もし、私たちが牢獄のような場所に追いやられたり、また、そのような雁字搦めの立場に立たせられた時も同様に、私たちにできることは、神の語られる言葉に聞き従ってゆくことだけであり、自分の理解を超えて従っていった結果、神様の御手が働いて、人間の力が及ばない解放の道が開かれてゆくことを知らされます。
バックストン師もまた次のように言っています。「また神様は、人をお救いになるときには、丁寧にその人を導き、その人になすべきことを教えてくださいます。救いを求めている者は心の中に種々の思い煩いが起こりますが、神様はその人を丁寧に、詳細に至るまで導いてくださいます。また、私たちが難しい状況に陥っても、祈りに答えて、私たちを導いてくださいます。ここで主の使いがペテロに衣服を着るようにと教えています。これは一方から考えますと、おかしなことです。御使いが靴をはくように教えることも、おかしなことです。けれども主の使いはただ大きなことばかりでなく、私たちにごく小さいことも丁寧に細かく教え導くことをここから知ることができます。」(p63)。