12月29日年末感謝礼拝メッセージ

『明日のことは明日が心配します』

聖書:マタイの福音書6章31-34節(新p11)

メッセンジャー:高江洲伸子師

2024年もあと数日、新しい年が始まろうとしています。
最近のことです。御身体の限界を見つめながらも、この年は新たなステップを目指してチャレンジして来られた方が、フト漏らしたことばが私の心を元気づけました。「限界かな、と思いながらも、マタイの福音書のことばが脳裏をかすめるのです」。私は思わず、「それが、神様が語っておられるということなのです」と言い放ったのでした。牧師にとって、み言葉で励まされ、み言葉によって生かされている姿を拝見するほど嬉しいことはございません。

私たちの日常にとって、心配は当たり前のことですが、その多くは、明日のこと、将来のことに関わる事柄です。来年度に対しても、様々な心配を抱えながら生きている私たちに、聖書は、「明日のことは明日が心配します」(マタイ6:34)と語りかけています。今日の心配はあっても明日のことまで心配しなくてよいのです。「苦労はその日その日に十分あります。」(34)と、言っているのです。

10年前に、故渡辺和子氏が書かれた『置かれた場所で咲きなさい』は、今でも多くの人たちに読まれています。読まれた方もおられると思いますが、この本のタイトル、「置かれた場所で咲きなさい」は、ある詩の一節から取られたのだそうです。もし、このタイトルをそのまま現状に当てはめて、いやなところでも我慢していなさいという勧めであるならば、どの世界でも言われることですが、聖書的、信仰的にタイトルの意味を理解するならば、この詩の原文には書かれている「神」を当てはめて、「神が植えたところで咲きなさい」という意味になるということです。

私たちは自分で取捨選択しながら生きています。考えに考えた末、ここが自分にとって最も良いところだと選びとったはずの場所であっても、物事がうまくいかなくなることは誰にでもあります。たとえ、今、そうであっても、やがて受け入れられないということが起こってくるものです。やがて、始めの感謝は不満に変わり、満足は、他者との比較に変わってゆきます。そうして、劣等感や深い思い悩みに落ち込いんでゆくことが度々起こってきます。そのようなとき、わたしたち一人ひとりを、この場所に置いてくださった方がおられると考えてみるのです。そして、目には見えない神が、わたしたちをこの場所に置いてくださったことを信じる時、私たちはそこでの生活や仕事を神から委託されたものとして受け止めることができるようになります。そして、私たちをその場所に置かれたキリストから「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(34)との語りかけを聴くことができるようになり、自分の力からでない、上から、神様からくる新しい力を体験するに違いありません。

「苦労はその日その日に十分あります。」(34)「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(口語訳)とは、神がわたしたちの思い悩みという苦労をご存じで あるということです。1日で済まないで、次の日へ、また次の日へと持ち越してしまうような思い悩みという縄目から、なかなか解放されないわたしたちの姿を、神様はご存じなのです。だからこそ、「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。」とお語りになっているのです。わたしたちは、思い悩みという苦労によって押し潰されてしまって先に進むことができなくなるのではなく、自らをこの場所に置いてくださった方がいることを信じて、1日1日集中して歩んでいくのです。なぜなら、神はわたしたちに必要なことを全てご存じであるからです。キリストは、このように語りかけておられます。「あなたがたの天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(32)と。

マタイの福音書6章18節には、「隠れたところで見ておられるあなたの父が見ておられます」と書かれています。信仰生活は、教会生活だけではありません。社会生活、人間関係も全て含めて、私たちが見ているところは氷山の一角でしかありません。本体は隠れたところにあります。どこで怒りが生じたか、何がいやだと思ったかと自ら本体である隠れた部分の内側にメスを入れてゆく時、自我の刃金が見えてくるでしょう。そこを天の父はジッとご覧になっておられることがわかってくるとき、「明日のことまで心配しないで良いのです。」ということばは、現実生活の中で真に力あるものになってくることでしょう。
神のもとで休んじていることができる年末年始とされますように。

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