『今日、救いがこの家に来た』
聖書:ルカの福音書19章1-10節(新p157)
メッセンジャー:高江洲伸子師
イエスは言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(9)
ザアカイの記事は、ルカの福音書19章にだけ書かれている記事です。19章でイエス様とその一行はエリコという町に入っていかれました。そこで出会ったのがザアカイです。18章の終わりでイエス様とその一行は、エリコの町に入る直前に、一人の目の見えない人に出会っておられます。その人は、道端に座り、物乞いをしていました(35)。けれど、その人は「ナザレのイエスがお通りになるのだと人々が知らせると大声で、『ダビデの子イエス様、私をあわれんでください』」(39)と叫び出したのです。人々が彼を黙らせようとすると、彼はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」(39)と叫んだと、書かれています。そこで、イエス様は立ち止まって、その人に、「わたしに何をしてほしいのですか。」(41)と尋ねられたのです。すると、その人は、「主よ、目が見えるようにしてください。」(41)と即座に言いました。イエス様はその申し出に答えられて、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」(42)と言われました。すると、「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。」(43)のです。イエス様と出会った、そして、イエス様にお願いしただけで、この人の人生は大きく変わりました。
続いて、19章の書き出し、「それからイエスはエリコに入り、」。「するとそこに、ザアカイという名の人がいた。」(2)と続きます。その名前の由来は「正しい人」「義人」。日本名では、正人(マサト)さん、義(ヨシ)くんというところでしょうか。「きよい人」という意味もあります。19章2節では、「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」と記されています。金持ちで取税人のかしらにまでなる、そこまで上りつめる才能。財と地位と才能とくれば現代人でも誰もが欲しがる三要素です。ところが、神様の目には、ザアカイは失われている人だったのです(10)。人間の欲望を満たすものを全てもっているように見えましたが、心の中は空っぽ。それだけでなく、むなしさと孤独が潜んでいました。パスカルという哲学者は、「人間には神以外に満たすことのできない空洞がある」と言いましたが、まさに、彼の心は何をもっても満たされていない空洞を抱えていたのです。それだけでなく、ザアカイは、人間本来の欲深さから不正の富を築くという罪悪感もありました。
そこへイエス様が来られたのです。ザアカイは、イエス様を一目見ようと近づいてゆきました。けれど、残念なことに彼は背が低かったので、群衆の後ろ姿に妨げられて見ることができませんでした。そこで持ち前の機転を利かせ先回りして程よいいちじく桑の木に登ったのでした。そこへ、イエス様の一行が段々と近づいてきます。そこには、喜びのざわめきと清らかな平和があります。その雰囲気は彼の世界には到底見出すことができないものでした。ザアカイはどきどきしながらイエス様とその一行を眺めていたことでしょう。いちじく桑の木の葉のしげみからそっと、イエス様を見ようと葉をかき分けると、何とそこにイエスのお顔があり、イエス様はまっすぐに木の上のザアカイを見上げておられたのです。そして、言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5)。その時のザアカイの驚き、感動、それは、言葉にならないほどだったことでしょう。
自分の名前をイエス様が知っておられるというだけでなく、「ザアカイ」と名前を呼ばれたのです。彼は木をなぞるように滑り降り、大喜びで主イエスを家に迎えました。「泊まることにしている」とは主イエスは既にザアカイの救いを計画されていたからにほかなりません。
ところが人々はそんなザアカイとイエス様をみて、「『あの人は罪人のところに行って客となった』と文句を言った。」(7)言ったのです。なぜでしょう.。8節で「だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」とザアカイが言っているところから、彼がどういう人物であったかを知ることができます。彼は人の金品を脅し取っていた悪党だったのです。
使徒ヨハネは第一の手紙1章9節で、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちすべての不義をきよめてくださいます。」と言っています。それまでの罪を認め悔い改めるザアカイにイエス様は、「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(9,10)と言われました。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(10)。アブラハムのような信仰者の誕生です。知ってください。救いは即座です。救いは善行によりません。善行は救いの結果です。救いは罪の量にもよりません。エリコの人たちを脅かし困らせていたザアカイは一夜にして「財産の半分を貧しい人たちに施す」(8)人に変えられました。人が救われるのは、ただ罪を認め、告白し、主を救い主として信じ受け入れること、それだけです。