8月18日礼拝メッセージ

『試みと信仰』

聖書 :マタイの福音書4章1-11節(新p5)

メッセンジャー:高江洲伸子師

「嘘つきのうそと試されない信仰ほどあてにならないものはない」と舎監の向後昇太郎先生は神学生の私たちに度々言われました。御国の宣教に先だって、イエス様もまた、悪魔の試みに会われました。今朝は、悪魔の試み(「試み」と「誘惑」は原語は同じ)がどのような熾烈なものであるか知り、勝利されたイエス様に倣う者たちとされますように。
 
40日40夜の断食後のことです。悪魔はキリストを試みようとして近づいて来ました。
1.「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(3)
悪魔は断食後の空腹(弱さ)を突いて語りかけてきていますが、キリストは即座に「人はパンだけで生きるのではなく、…」と応答。これは、「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなか
ったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)の引用です。このみ言葉は神様は苦しみと飢えを通して、人々にマナを食べさせようとされたといっています。決してパンが必要でないというのではありません。苦しみと飢えの中でもまず霊の糧であるみことばにより、勝利に導かれることこそ重要であることが教えられます。
2.「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手をあなたに乗せ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6)
続いて悪魔は、神の子であることを証明することを、み言葉を悪用して巧に話かけてきています。最初の人エバもまた同様の誘惑に遭いました。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(創世記3:1)この言葉は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16,17)と夫アダムに語られたみ言葉の巧みな使いまわしです。しかも、直接神が語られたアダムではなく、一番近いエバに紛らわしく語りかけていることも要注意です。私たちもまた聞くことがらに注意が必要です。悪魔の狙いは確信を奪い、人々を不和と迷いの森に導き破滅させる事です。
同様に、ここでも、みことばを微妙に変形して語りかけ、あたかも、キリストが身を投げ落とすと、神はみ使いたちに命じて助けられると約束されているかの如くに詩篇91篇11,12節を引用しています。私たちが世で受ける災いや苦しみは、神の御許しの中での出来事です(マタイ10:29)。そこで神が私たちに求めておられることは、「神への信頼」であって、神を試すことではありません。イエス・キリストは「あなたの神である主を試みてはならない」と申命記
6:16を引用して答えられいる様に、私たちも試練や誘惑に遭う時、み言葉で対峙する事は大切です。
出エジプト記17章1-7節でイスラエルの民は荒野を旅行中、飲み水が尽きてしまいました。その時彼らは、「飲む水を与えよ」とモーセに迫り、「『主 は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みた」(出エジプト17:7)のです。「主を試みる」行為は、人間が神を操作することに繋がっています。そこにあるのは、神のみこころに従う代わりに、自分の願望を神に押し付け、神を支配することに他なりません。申命記6:18.19では、「主 の目にか
なう良いことをしなさい。そうすればあなたは幸せになり……敵をことごとくあなたの前から追い払うことができる」(6:18、19) と書かれています。
3.「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(9)
エペソ人への手紙2:2には、「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」と書かれています。悪魔は、天の神と地にいる人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めているというのです。悪魔は「この世の君」とも呼ばれ、ヨハネ12:31でイエス・キリストは「この世を支配する者」と言っています。神中心の世界を自分の思いと自分の利益中心に変えてゆく、決して油断できない存在であることを深く心に留める必要があります。
 戦争による人間の心の変貌の怖さは森村誠一著「悪魔の飽食」にも十分描かれていますが、15日朝日新聞の終戦日特集記事の中でも元日本兵だった方の思いが真実に綴られていました。東南アジアに派遣される兵としての訓練の第一は、先輩から叩かれることだったそうです。記事を読みながら、先輩から叩かれ、やがて自分が後輩を叩き、人を傷つけることに段々と慣れさせられ、やがて、人をも殺すことができる人になってゆくのかもしれないと思いました。
これが悪魔の法則なのかもしれません。けれども、神の僕は叩かれて育てられるのでなく、愛において試みられ、神のみ言葉、神のみ旨に従う者として試練の中で訓練されて、やがて安心して神に用いられる者に養われてゆきます。

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