『たましいの安らぎ』
聖書 :マタイの福音書11章28-30節(新p21)
メッセンジャー:高江洲伸子師
「28.すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29.わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30.わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
この箇所は、聖書の中でも「最も高価な真珠」と言われています。
(1) 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」(28)
「疲れた人、重荷を負っている人」、この言葉は、疲れた人、病気に苦しむ人、人から傷つけられている人、仕事や受験に敗した人、失恋した人、自分に自信を無くした人、何かの重圧に苦しんでいる人を思い浮かべます。2000年前、イエス・キリストが人として地上に来られた時、イエス・キリストの目に入ってきた疲れ果てた人たちとは、どのような人たちだったのでしょう。実は、当時、イエス様が歩まれたイスラエルには重荷を負わせる人、それも、押しつぶすまでに重荷を負わせて人々を疲れ果てている人たちがいました。その人たちとは、モーセの掟を守らないと救われないと言ってはばからないパリサイ派の人たちでした。律法を守れない人たちを「地の民」と呼び、絶望に追いやっていました。そのような、律法を負いきれなくて喘いでいる人たちに向かって、イエス・キリストは「すべて疲れた人(たち)、重荷を負っている人(たち)はわたしのもとに来なさい。」と、招きの声をかけられたのです。
「わたしのもとに来なさい」(28) 原語では、「振り向く。顔を向ける。向きを変える」という意味があります。「悔い改める」と同じ意味があることばです。イエス様の方に向きを変える、イエス・キリストの方に顔を向ける。主の語られるみことばに心を向けるならば、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28)と、主イエスはご約束くださいました。
(2)「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(29)
「あなたがたも」(29) イエス・キリストは「わたしもみ父のくびきを負って歩んでいる」という前提のもとで、「わたしから学びなさい」と招かれています。
「わたしから学びなさい」(29) ここでの「学び」は机上の学びでなく、弟子が師匠のすることを見倣うという学びを意味しています。ハングリー精神と忍耐と就業が必要とされます。「私」は、神の御子であられるイエスご自身のことですから、神とのかかわりにおいて学ぶことを意味しています。みことばの深みで新しい意味を発見する時、上から、神からくる「喜び」が伴います。その喜びは、みこころを行っている時に伴う喜びと同質のものです。神に「学ぶ」、神から教えられることは人間にとって真の生きる喜びに繋がっています。
「学び」の内容はイエス・キリストの「くびきにを負う」ことです。くびきは、へりくだって魂を垂れなければ首に乗せることはできません。旧約聖書に「うなじのこわい民」(申命記9:13)ということばがでてきますが、うなじを固くするとは神の思いに反して気持ちを固くして従わない様子を表しています。神のことばに背を向ける時、主のくびきを負うことはできません。
「くびきを負う」(29)とは、ヨハネの福音書15章:4節の「キリストのうちにとどまる」と同じ意味があります。ですから、「わたしのもとに来る」は「キリストのうちにとどまる」と同じことを表わしています。イエス・キリストのくびきを負うことによって約束されているのは神から来る「安息」と「安らぎ」です。
エレミヤ6:16に、「道の分かれ目に立って見渡せ。/いにしえからの通り道、/幸いの道はどれであるかを尋ね、/それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。」と書かれています。このように、 「わたしのところに来なさい」と呼びかけられていても、なかなか自分の考えや力でそれに応じることができません。けれど、ご聖霊の促しがあって、私たちはその一歩を踏み出すことができたのでした。
マタイ11:25で主イエスは、「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」と言っています。なぜ、知恵ある者や賢い人たちには知らせず、隠されていたのでしょう。パウロは一コリント1章27節で、「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」と言っています。神様は、愚かさと弱さを覚える者たちの上に神のめぐみの力を注いで、神の栄光と喜びへと招かれていることを知ることができます。神の恵みは心の低い人に向かって流れてゆきます。マタイ11:26で、「これはみこころにかなったことでした。」とイエス様は言われていますが、このことばを直訳すると、「あなたの御顔には喜びがある」です。即ち「みこころ」は、み父の目には喜ばしいこととされることなのです。また、「くびきを負う」の語源は、「くびきをともにする」で、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(30)とは、御子イエスが負っているみ父の喜びを共にして、み父の喜びを我が喜びとする弟子のことを言い表しています。