7月21日ウエルカム礼拝メッセージ

『信じた通りになるように』

聖書 :マタイの福音書8章5-13節(新p13)

井上メッセンジャー:井上義実師(荻窪栄光教会牧師)

 久しぶりに横浜栄光教会の主日礼拝に来させていただき、感謝いたします。梅雨明けと共にやってきました。荻窪では昨日、キンダークラスのデイキャンプがありました。夏の諸行事の祝福をお祈りいたします。
この聖書箇所のすぐ前のマタイ5~7章は山上の説教で、とても内容の濃い説教です。その後、イエス様が山から下られ、貧しさ、病い、苦しみのある世界で実際の働きに携わられる姿が出てきます。

Ⅰ.百人隊長の人となり
 8章前半は3つの癒しの話になります。ハンセン病患者の癒し、ローマ軍の百人隊長の僕の癒し、ペテロの姑の癒しです。2千年前のユダヤの社会であったということを考えてみましょう。ツァラアトと書かれています汚れた病にかかっていたとされていた人たち、ローマ軍の百人隊長はユダヤ人から見るならば外国人の傭兵、女性が登場します。それぞれが、2千年前のユダヤの社会で差別を受けていた人たちになります。
ローマの百人隊長の話を見ていきましょう。今、現代では聖書は全世界で知られ、読まれています。キリスト教は世界最大の宗教となっています。しかし、当時は基本的に、聖書も、聖書を記された神様も、イスラエルの狭い世界のものでした。ユダヤ人以外は詳しくは知らなかったと言えます。
その意味では、ローマの百人隊長は神様から遠かったとでしょう。ユダヤのカぺナウムに駐留していた百人隊長は、イエス様のことを聞きました。その言葉には力があり、神様の愛を表し、病の者を癒し、弱い人を力付け、誰にも隔てなく接している御方…。イエス様のことを知るにつれ、ただの人ではないと思っていたのでしょう。大事な部下が重体になり、イエス様ならば何とかしてくださるという思いでイエス様の元にやってきました。百人隊長は軍隊という非常に厳しい世界で、一人の僕を大切にし、イエス様に対して丁寧に話をしています。百人隊長は立派な人格を持った人であったことが分かります。

Ⅱ.百人隊長の信仰
 百人隊長は人格的に優れた人でしたが、それ以上に素晴らしいものを持つ人だったことが、分かります。百人隊長は「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8節)と言いました。この言葉は神様の前に、自らを低くする言葉です。この言葉は神様の大きさを良く知り、自分の小ささを良く知った上でなければ、発することのできない言葉です。
イエス様は百人隊長に対して「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」(10節)と言われました。人は誰かを判断するのに、見た目、言葉、行い等で判断しやすいものです。この場にいたユダヤ人たちは、外国人で武装した百人隊長を信仰深いとは、誰も思わなかったのではないでしょうか。イエス様は、人には見えない心と魂をご覧になっておられ、人の内にあるものを評価される御方です。

Ⅲ.百人隊長への答え
この世の評価は、小学校時代の通知表に始まって以来、見えることがらで成り立っています。幼稚園からそうでしたという人もおられるでしょうか。人間は、そのような面でしか客観的に評価できないとも言えます。
また、私たちは見えることだけで評価されたくない、もっと私そのものを評価してほしいという思いもあります。この世の評価で、何時も傷つく思いをされている方もあるだろうと思います。Cf.先日TVで小林宗作氏のトモエ学園について見ました。黒柳徹子さんのトットちゃんに出て来ます。子どもたちを決して枠にはめない教育をされていました。「君は、本当はいい子なんだよ。」との言葉が心に残りました。…誰もが神様にとって価値ある大切な存在なのです。賜物のあるすばらしい力を持っています。
神様はこの世の評価で判断されるような方ではないことを、イエス様は表してくださっています。当時のユダヤ社会で差別された外国人の百人隊長を喜んで受け止められました。イエス様は「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」(13節)と百人隊長を送り出されています。イエス様は百人隊長の持つ神様への信仰を喜ばれ、その願いが自分のためではなく、他者のためであったことも評価され、大きな奇跡をもって答えてくださいました。

神様が私たちをご覧くださっているのは、私たちの心と魂です。目に見える部分の評価ではなく、目に見えない部分の評価なのです。誰もが心と魂を神様に向けることができます。神様は喜んでご自分に近づこうとされる者を受け止めてくださいます。この神様の愛に私たちは生かされましょう。

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