-いかに生きるか-十戒(9)『真実な証人』
聖書 :出エジプト記20章16節(旧p135)
メッセンジャー:高江洲伸子師
十戒は、エジプトの奴隷状態から解放された者の新しい歩みの指針です。第9戒を文字通りに訳せば、「あなたは、虚言の証人として、あなたの隣人に不利に答えてはならない」となります。「証人」は、他者に向けて成すべきことであり、「虚言」(シェケル)は「偽り、まぎらわしいこと、迷妄」等の意味がありますが、ここでは、単に「うそを言わない」ということよりも、現在困窮の中にある「隣人のために真実を証言する」と捉えることができます。
ハイデルベルク信仰問答はこの戒めについて、「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと」と解説しています。
偽証をする理由
では、なぜ人は偽証をするのでしょう。いくつかの理由が考えられます。 W・バークレイは「真実を語るために、「偏見」「利己「自己防衛」の妨げがある。」と言っています。偏見の目で見ているところではすでに真実から離れてしまっていますし、何気ない会話の中でも、必死に自分の価値を減らさない為に自己防衛の策を講じてしまうのが普通の状態です。更に、偽証の根底には、他人をおとしめるという悪意がありますし、悪意の根底に、自己の利が現存しています。
マタイの福音書26章57~68節で、主イエスは十字架に架けられる前の日、ユダヤの自治を任されていた最高法院において、偽りの証言を求める人々によって死刑と定められました。彼らは十戒に精通している祭司長や律法学者でした。しかし、彼らは偽証を求めてまでもイエス・キリストを死刑にしようとしました。イエス・キリストの十字架は、この第9戒を破るというあり方で決められたのです。彼らは、イエス様に対するねたみから貶めようとして偽りの証言をしました。それは、自分たちの立場、利益を守るためでもありました。
私たちがこの9戒を戒を破る時、イエス・キリストを十字架に架けることを決めた人々と同じ罪を犯すことだということをしっかりと心に刻まなければなりません。(ジョン・バンヤンの夢)
真実を語らなければならない理由
そこで、第9戒が私たちに求めていることは、神様の真実と愛を語ることのできる真実な証人であることを心に刻まなければなりません。私たちは御子イエス・キリストの十字架上での執り成しと犠牲、死と蘇りによって救われ、新しくされました。この救いの恵みの故に、今生かされています。このことについて、自分の利益の為に黙っていたり、自分には関係ないかのように嘘を言ってはなりません。
ペテロはイエス様が捕らえられた時に三度、イエス・キリストを知らないと否認しました。ここでのペテロは自分の利の為に偽証したのです。ペテロはこの嘘でイエス様を裏切ったというだけでなく、嘘という棘が自分の中に入ってきたことにより、自分自身もまた深い傷を負うことになりました。けれども、復活の主は、そのぺテロを赦されただけでなく、新約の教会のリーダーとして用いられました。
ペテロがキリストを「知らない」と否んだ時、そこに他の弟子たちはいませんでしたから、本人が黙っていれば誰にもわからないことでした。けれど、このことがどの福音書にも記されているということは、ペテロ自身が各所で語ったことを証しています。ペテロにとってこの出来事は、神と人の前に、真実に自らの罪をはっきりと認め表すものでした。ペテロは赦されましたが、そのような自分であったことをカモフラージュすることなく、その自分の十字架を負うて生涯キリストの弟子としての歩みを全うしました。私たちもまた、ペテロ同様、神様の愛と真実を証する者として立てられ、遣わされています。
第9戒における法廷的背景
「嘘」というのは個人的、私的な人間関係の中で語られることに対して、「偽証」は、法廷において用いられることばであるところから、9戒はうそ一般を禁じているというよりは、特定の法廷における「偽証」を禁じていると受け止められています。
出エジプト記23章1-3節の訴訟における規定では、「偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。」と明確に記されています。
また、申命記19章15-17節では、一人の証人の証言だけでは証拠にならず、偽証によって裁きが曲げられることを防ぐ配為に、二人以上の証言が必要であったことも記述されています。裁きは神のものであることを深く心にとめて、いつも神の側に立って、正しく物事を見る目と心を持つ者とさせて頂かなければなりません。