『信仰の出発点』
聖書:ヨハネの福音書20章24-29節(新p228)
メッセンジャー:高江洲伸子師
ある人が、信号機が変わるのを待っていた時に、フト、誰かが自分を見ているような気がすると思ったそうです。その時、「ああ、信仰を持つ人は、このようにして神様を信じてゆくのかもしれない」と、思ったと言うことです。信じる心、それも、目に見えない神様を信じると言うことは、なかなか難しいものです。イエス・キリストの弟子でさえそうでした。
不信のトマス
トマスは12弟子の一人でした。どのような人物だったでしょう。11章16節、「そこで、デドモと呼ばれるトマスが弟子たちに言った。『私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。』」と言っています。トマスがこのように言っている背景は、その頃ユダヤではパリサイ人や律法学者からの迫害がひどくなっているにもかかわらず、イエス様が「ユダヤに行こう」と言ったので、「だったら、私も一緒に行って死んでもかまわない」という思いが込められたことばだったのです。この言葉から、トマスはかなり熱心、熱情的な人だったようです。
14章では、「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」というキリストの言葉に対して、「主よ、どこに行かれれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(5)と尋ねています。この率直さは、更にキリストを知りたいという熱心な求道心が溢れています。分かってもいないのに、弟子だからと言って、わかったふりをしたりせず、「私にはわからないので、どうかイエス様教えてください」と尋ねている姿勢は、正直で裏表もない、真っ直ぐな人柄と受けとめることができます。
そして20章24節からの記事です。ここは、イエス・キリストが十字架に架かられた後の箇所です。金曜日に十字架に架かられ、三日後の日曜日の朝復活されましたが、その日曜日の夕方の出来事ことです。弟子たちはユダヤ人たちの迫害を恐れて鍵を掛けて隠れ家に潜んでいました。そこへ、復活されたイエス・キリストが入って来られて、弟子たちに手と脇腹を示されたのです。その時の弟子たちの喜びはどのようだったでしょうか。「弟子たちは主を見て喜んだ」(20)と書かれています。ところがそこにトマスはいなかったのです。弟子たちは、復活の主の証人として、トマスにキリストを伝えようとしますが、トマスは全くその証を受け入れません。そして、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25)と断言するのです。これはトマスだけのことではありません。肉眼で見ることのできないキリストを信じた私たちが、そのことを伝えようとするときに起こってくる、現実の世界と信仰の世界の壁をここに見ます。翌週の日曜日も弟子たちは、隠れ家に潜んでいました。そこへ、復活のキリストは再び来られて、「平安があなたがたにあるように」とみ声をかけられました。それからトマスの方を向いて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と御声をかけられたのでした。トマスがキリストの脇腹を触ったとか、手を入れたとかについてはここでは書かれていませんが、トマスはそこにおられるお方が復活のキリストであるということがわかったのです。トマスは「私の主、私の神よ」(28)と新たにイエス様を信じ受け入れたのです。
医師ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑心を避けて通るというのでなく、ためらいや錯誤、数々の失敗などを通しても、手探りで進むものである」と言っています。純粋に神を求める人は、内側から起こってくる懐疑心や問いかけを、うやむやにしたり封印するのでなく、トマスのように率直に申し上げ真理を求めて行く姿勢は、求道や信仰における健全な態度であると言うのです。疑いは信仰のもう一つの側面でもあるといえます。
今回スプリングキャンプでメッセージをしてくださった鎌倉深沢教会の土屋開夫先生は、子どもの頃、イエス様を信じて救われたそうです。けれど、信じた後も、自分がもっと変になったかのように思えた時があったということです。にもかかわらず、そのような自分をイエス様は変わらず愛してくださり、赦していてくださることを知ったということでした。イエス様は、不信に陥るトマスをも良き信仰に導き、時々道から逸れてしまう者たちをも、愛して赦して受け入れて下さり、一人一人に相応しい導きを与えられるお方でいらっしゃることを覚えて、感謝に思います。
信仰の出発点
そのイエス・キリストは、トマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(28)と言われました。へブル人への手紙11章1節には「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と書かれています。通常、人は条件が揃ってから始めます。それは堅実なことですから、この世の人たちがよく用いる方策です。ところが信仰は、望んでいる事柄が何であるかを確認させ、まだ見ていないことがらを確信させてから現実の出来事へと導かれます。信じることが計算に先立っているのです。例えば信仰の祖アブラハム、「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と言われたとおり、多くの国民の父となりました。」と(ローマ4:18)聖書は記しています。私たちが肉眼では見えない世界の入り口に立った時、躊躇し迷います。その私たちに、復活のキリストは、「信じない者ではなく、真実者になりなさい」(27)と静かに語っておられます。