『主がお入り用なのです』
聖書:マタイの福音書21章1-11節(新p42)
メッセンジャー:高江洲伸子師
本日の出来事は「エルサレム入場」の場面です。全ての福音書にこの出来事は書かれています。(マルコ11:1-10、ルカ19:28-48、ヨハネ12:12-19)。イエス様は、エルサレムに入場された週の金曜日に十字架にかかられましたが、金曜の受難日までの歩みは週報に「受難週カレンダー」を記載させていただきましたので、ご覧ください。
Ⅰ.預言通りに来られた王(1~7)
「娘シオンに言え。『あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って』」(3) <引用箇所 ゼカリヤ9:9「見よ、あなたの王があなたのあなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って、雌ろばの子である、ろばに乗って。」>
このように、イエス・キリストが最終目標である十字架にお掛かりになる為にエルサレムに入って来られる時、ころばに乗って入場されることは、旧約聖書ですでに預言されていました。けれど、通例、王が乗るのは、猛々しい軍馬でしょう。一体どの王が、人の背丈もないような、小さな、しかも、おっとりと歩くろば、しかも、子ろばに乗って人々の前を歩いて入場するでしょう。
ゼカリヤ書の預言は、つづいて、「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓もたたれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ。大河から地の果てに至る。」(ゼカリヤ9:10)と、まさに、イエス・キリストは、平和の王として来られたのでした。
Ⅱ.人々の期待した王(8~11)
「非常に多くの群集が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。」(8)
子ロバに乗って入場されてきたイエス様のために、彼らは王を迎える時のように(列王記9:13)、熱狂的にイエス様を歓迎し、「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高きところに。」(9)と叫びました。「ホサナ」とは「私たちをお救いください」という意味のへブル語です。これは詩篇118:25,26にでてきますが、「ああ主よ、どうか救ってください。ああ主よ、どうか栄えさせてください。祝福あれ 主の御名によって来られる方に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する。」と詩篇には書かれています。民衆はまさに、待ちに待った王、ローマの圧制からの解放という輝かしい勝利が目の前に来た!との思いで一杯でした。ところが期待していたイエス様は群衆の期待とは裏腹だったのです。その時の人々の期待は失望に終わりました。そうして、妬みと憎しみに燃える指導者たちの声に巻き込まれて、遂には、イエスを十字架につけることになりました。この時、「ホサナ、ホサナ」とイエス様を賛美していた声は、「十字架につけろ」(マタイ17:22)という声に変わっていったのです。
Ⅲ.神の思いと人の思い
福音書の各所から、イエス・キリストの眼差しは、一貫して、いつも、貧しく、小さく、人々から取り残された人たちに向けられていることがわかります。「向きを変えて、子どものようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする者が天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18:3-4) 「皆に仕える者になりなさい」(マタイ20:26) 「皆のしもべになりなさい」(マタイ20:27)と言われ、イエス・キリストは、上下逆さまの国の王として、このように語られただけでなく、そのように生きられた王であられました。
人びとの「ホサナ」(我らの主よ今救いたまえ)の賛美と祈りの声は、彼らが考えていた思いをはるかに超えてきかれ、イエス・キリストはユダヤだけでなく、全人類の平和の王として、十字架による完全な贖いの業を完成されたのです。
この大切な使命を果たすために、エルサレムに入場される際、用いられたころばの様に、私たちもまた、用いていただけます。ろばは、軍馬と違って、決して戦いに猛きを表わす存在ではありません。ろばは、柔和、やさしさ、平和を象徴的に表しています。私たちもまた、「主がお入り用なのです」の御声に応答してゆく時、主をおのせし(宿し)、主イエス・キリストの愛と平和を人々に持ち運ぶ者とされてゆきます。今日、「主がお入り用なのです。」の御声に、つながれていたひもから解かれて、主のもとに行く人はいないでしょうか。
参考資料 小野淳子師礼拝説教要旨