3月17日礼拝メッセージ

『仕える生き方』 -レントに十字架の主を偲ぶ-

聖書:マタイの福音書20章20-28節(新p41)

メッセンジャー:高江洲伸子師

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(28)

次週はパームサンデーです。十字架まで残り二週間のレントの時を、ご一緒に深く十字架の主を仰いで参りましょう。マタイの福音書の今朝は20章。続いて次週は21章です。人々がエルサレムに入場されようとしているイエス様を、棕櫚の葉を敷き、また、手にして歓迎したところから「棕櫚の聖日」と言われていいます。
20章はまさに、十字架を直前にしたイエス様です。

Ⅰ. 弟子たちの願い(20~24)
これまでに、イエス様は「受難の予告」を16章17章で語られ、また「天の御国」で一番偉い者は、子どもたち、小さい者たちであると語られ、天国の価値観はこの地上の価値観とは全く反対である(真逆)とも語られ、弟子たちはそれらのことばを耳にしてきていました。ところがどうでしょう。今日のテキストにおいて、弟子たちがイエス様に願ったことは何だったのでしょうか。しかも、その直前17~19節でも「受難の予告」をされたばかりでした。そこへ、ゼべダイの息子たち、すなわちヤコブとヨハネと彼らの母が、イエス様のところに来て平伏して願ったことは、「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座れるように、おことばを下さい。」(21)でした。
イエス様の答えは、「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことはできますか。」(22)でした。おそらく、二人は深いところは分からず、反射的に「できます」と答えたと思います。それに対して、イエス様は、そうですね、「わたしの杯を飲むことになります。」しかし、「わたしの右と左に座ることは」、「わたしが許すことではありません。」(わたしが許してできることではなく)、「わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです」(23)と言われました。「ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた、」(24)とありますから、ヤコブとヨハネ以外の弟子たちもまた変わらず、同じような願いを心に抱いて。「してやられた」という思いをもって、二人に対して立腹したのでした。この時のイエス様のみ思い、父なる神のみ思いは如何だったでしょうか。忍耐を考えさせられる場面です。

Ⅱ.イエス・キリストの願い(25~28)
 そこで、イエス様は重ねて、天のみ国の住民の在り方、価値観を弟子たちを呼び寄せて語り込まれるのです。異邦人の支配者たち、この世での偉い人たちのようであってはなりませんと弟子たちをさとされています。そして、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」(26)「あなたがたの間で先頭にたちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(27) そして、極めつけの今日のみことばを語られます。「人の子」即ち、イエス様ご自身が、どういう生き方をし、また死に方をするために来られたかを語られたのでした。それは、➀「仕えられるためではなく、仕えるため」であり、②「自分のいのちを与えるために来た」➂それは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」。④「それと同じように」あなたがたもしなさい」。というのが、イエスの願いでありました。(28)
 私たちはどうでしょうか。イエス様の十字架を一つのものさし(規準)として自分を振り返ってみる時、思いや行い、また、願っていることは、イエス様が願っていることと近いでしょうか?あるいはかけ離れているでしょうか?と、黙想しつつ、十字架の主を偲ぶレントとされれば幸いに思います。
さいごに、先週の聖書研究祈祷会での証しでお聞きした話ですが、その証をされた方は、最近、金属アレルギーのパッチテストを受けられたそうです。約20種類の金属の反応をみるパッチが身体に貼られ、四日間通院して、毎日その反応を調べることによって、どの金属がどの程度反応しているかを見るのだそうです。今は花粉症のシーズンで花粉との戦いの日々ですが、金属アレルギーもあるんだと言うことを私は初めて知りました。その方が言われたさいごの一言。丁度、金属探知機で内側に反応するものをもっていないか調べられるように、そのテストをうけている時に、聖別礼拝で工藤須美子先生が証の中で語られた、「まだ、ないか、まだ、ないか」と内側を調べれるかのように、私たちの内側を神様に調べられるかのようだったと。
イエス様の十字架はまさに、私たちの内側の罪のパッチテスト、或いは、金属探知機です。イエス様は仕えるために来られましたが、私はどうだろうか?イエス様はご自分の命までも罪人の私たちに与えられたが、私はどうだろうか?それだけでなく、「あなたがたも同じようにしなさい」と言われていますが、果たして私にそのようなことができるのだろうか?と、十字架を目前に控えたレントの中で聖霊の探知機で探って頂くことも幸いではないでしょうか。        参考資料 小野淳子師3/18礼拝説教要旨

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