-いかに生きるか-十戒(4)「第三戒め-主の御名」
聖書:出エジプト記20章7節(旧p134)
メッセンジャー:高江洲伸子師
「神の御名」 (かみのみな)
「神の御名」ついて『聖書神学事典』(いのちのことば社)は、“固有名詞は「ヤーウエ」で表されるが、イスラエルの民はその御名があまりに聖なるものであるので、単に「御名」(八シェーム)と呼んでいたこともあった。あるいは「主権者」との意味で、「(私の)主」(アド―ナイ)という呼称も盛んである。”と書かれています。イスラエルの人たちが使った神の呼称は種々ある中に、その一つ一つに当時の人たちが如何に神の御名に対する恐れと畏敬の念を抱いていたかを知る事ができます。今回も関田寛雄氏の書かれた『十戒・主の祈り』をテキストにして、第三番目の戒めについて学んで参りましょう。
イザヤ書45章4節には、「わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。」と書かれています。名は体を表すとも言われ、子どもが生まれると親は思いをこめて命名致しますが、天地を創造され、人を創造された神様も一つ一つ、また一人一人の個性を重じ、名前によって、神の御思いをその名に反映させている様子を伺い知ることができます。
例えば、創世記25章のエソウとヤコブの命名。双子の長男は「赤くて、全身毛衣のようであった。それで、エソウと名づけた。」(25) 「その後で弟が出て来たが、その手はエソウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。」(26)と、彼らの個性を表した名前がつけられました。やがてヤコブは名前通りの頭角を表し、兄エソウを押しのけて長子の権利も祝福も奪って逃走し、紆余曲折を経て最終的に神様にすがりついて助けを求め、ヤコブ(おしのける者)という名前から「イスラエル」(神の皇太子)という名前に変えられました。(創世記32:28) ヤコブだけではありません。十戒を授けられたモーセは水の中から引き出されたので、「モーセ」(※「水の中から…引き出したから」出エジプト2:10)と呼ばれました。
イエス・キリストご自身、誕生前、マリアとヨセフは御使いから「その名はイエス」と告げられていました(マタイ1:21)。そのイエス様は私たちに、「牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出します」(ヨハネ10:3)と言われています。聖書に出て来る人たちだけでなく、私たち一人一人もまた神にその名が知られているのです。
では、他の神(偶像)は、どうでしょうか。兵庫県の明石人丸にある人丸神社は、安産の神と言われますが、それは「人が生まれる」という言葉になぞらえて「ひとまる神社」と呼ばれ、また、「火とまる」で防火の神様としても祀られているということです。人間は自分の都合の良い神々を自分で仕立て上げて(或いは、選んで)、ご利益を得ようとします。
主の名の乱用
「みだりに」(ラッシャウ)という言葉は、ものをぶっつけたり、やかましい音をたてるという語(シャーアー)からきています。機械的に神の名を呪文のように唱え、神を強制しようという、異教的な習慣を暗示しているようです。さらに注意を要するのは、敬虔なことばを不敬虔に使用することです。キリスト教会内においても、信仰のことば全体が心を失って、「イエスの血」とか、「兄弟愛」とかという言葉が無造作に「みだりに」用いられることを恐れなければなりません。「十字架と復活」という大切なことばも、使い方によれば、イエス様ご自身を貶めてしまうことがあります。パウロは、「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい饒鉢と同じである」(Ⅰコリント13:1)と言いました。神に向かう真実な信仰心が問われています。心しなければなりません。浅野順一氏もまた、聖書においては「言葉は事柄をも意味している。しかしその事柄はそこに精神が貫かれているのであって、単なる物を意味しない」と言われていますが、ことばには精神がこもり、語る者の責任がかかっています。使徒ヨハネは、「私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実をもって愛しあおうではないか」(Ⅰヨハネ3:18).と言っています。
このように、第三の戒めは信仰の真実のことばを要求しています。マタイ12章36節でイエス様は、「人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」と言われました。
エゼキエル36:22,23では、御名を汚しやすい私たちの不始末に変えて、神ご自身がその聖なる名のゆえに、「わたしがあなたがたのうちで聖であることを示す」と語られています。このお方に信頼して大胆に御名を崇めさせていただく者とさせて頂きましょう。
<補足> 御名による祈り
1,御名による祈りはきかれます。(ヨハネ14;13、14:14、15:16、16:23)
2.主の祈りは、「御名が崇められますように」から始まっています。