-いかに生きるか-十戒(2) 「勝利の宣言」
聖書:出エジプト記19章17-20章3節(旧p134)
メッセンジャー:高江洲伸子師
第一戒
「あなたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」出エジプト記20:3
主イエスが最も大切な戒めとして言われたことは、第一に「あなたは心をつくし、いのちを尽くし、知性をつくして、あなたの神、主を愛しなさい」。第二に「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:37-40)でした。モーセの十戒もまた、第―から第四戒までは神と人との関係における大切なこと。第五から十戒までは、人と人との関係における戒めになっています。
これらのことは、神によって造られた人間は、神に従うことが人生の基本であり、人が基本に沿って歩む時、人と人との関係の中においても良きものが生じ、神が目的とされるみ心の実現がなされてゆくことを表わしています。
信仰生活と倫理
聖書の律法は人間が生きていく上での基本的なルールともいえる、法律の土台となっているということを聞いたことがあります。その聖書に見る倫理観は、人を創造された創造者への信仰から出発しています。私たちが聖書のことばを中心として生活して行く時、結果として、人間関係の中にも良き実を刈り取ることになり、神を第一にして歩んでいると、自ずと周りの人にもその恵みと祝福が及んでゆく結果になるわけです。この順序を変えることはできません。それは、丁度、イエス様の十字架には縦の柱があり、そして横木があるかのようです。
ルターは第一戒の「わたし以外に、ほかの神があってはならない。」この箇所を「わたしと並べて」と訳しています。神はご自身以外のものとご自身を「並べて」拝することを人間にゆるされていません。まず、神のみを拝するお方として存在されています。もし、神様と同等に並べているならば、それは、「姦淫」であり(ホセア1:1)また、「二種のはかり」(箴言20:1)を意味しています。「結構なことだ」「まあいいじゃないか」といった曖昧さは、聖書の信仰とは異質なものです。逆に、多神教においては、倫理的義務や責任の意識が乏しくなり、良心の真実さも失わざるをえません。
多神教と一神教
旧約聖書の「神」はヘブル語の「エロヒーム」が使われています。このエロヒームは複数形の神を表しています。それに対して「主」を表すへブル語は「ヤーウエ」ですが、ヤーウエは単数形で、唯一の神を表しています。
多神教においては、究極的主権というものがはっきりしていません。主権者が複数存在するということはありないように、真の拝すべき主権者なる神がいないところに、救いの確かさも、祈りがきかれているという確かさもまたありえません。もし、複数主権者が存在するというなら、それは、すでに、主権者であることをやめたということになるでしょう。このような意味で多神教においては、究極的に主権がはっきりしていないので、真の拝すべき主権者なる神のいないところにおいて、むなしく礼拝をささげていることになります。
イスラエルを導かれている唯一の神
エジプトから救出され、めぐみによって歩んでいるイスラエルにとって、ヤーウエのほかに「並べて」拝する神はありうるはずがありません。イスラエルがカナンの地に着いた時、ヨシュアは「あなたがたは主を恐れ、まことに真心と真実をもって、主(ヤーウエ)に仕え、…エジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい」と民に語りかけた上、「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。」と決断と選択とを迫っています。(ヨシュア24:14,15)
この世において私たちは、様々な形の誘惑を受けながら生きています。主イエスも同様に試みの山で試みられました。イエス様を誘惑したサタンは私たちに対しても、「もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる」(ルカ4:7)と誘いかけてくることでしょう。こうした誘惑は、イエス・キリストを通して真に神のみを神とするかどうかという信仰の戦いに他なりません。富、思想、私という神々につくかどうかが問われています。私たちはその都度、以前の闇の生活から救い出されたことの感謝と喜びをもって、「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」と決断と選択を明確に致します。そしてこの時大胆に、また、迷うことなく主を「わたし」の神として選ぶことができるのは、過去の恵みの記憶と感謝があったからできたことであることを忘れてはなりません。
参考図書 関田寛雄著「十戒・主の祈り」