-いかに生きるか-十戒(1)「福音と律法」
聖書:マタイの福音書5章17-20節(新p7)
メッセンジャー:高江洲伸子師
※「十戒」を学ぶ上での導入 その「福音的理解」について
私たちが「福音にふさわしく生きる」ことを願うならば、私たちは聖書に帰らなければなりません。「十戒」(律法)を正しく理解をすることなく聖書的に生きることは、「土台」の無い家に住んでいることに等しいと言えます。私たちは「十戒」(律法)を正しく理解することによって、キリスト者として「いかに生きるか」知ることができます。
福音と律法
「律法」の理解は一人一人まちまちであったり致します。たとえば、パウロは「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)と言っていますが、このみ言葉を、「恵みが満ちあふれるために、あえて罪にとどまろう」といった受け止め方をしている人もいるかもしれません。また、ルターが「信仰義認」を言えば、「どうせ、神によってしか義とされない罪人だから」と思い、罪を曖昧に考えてしまっていることもあります。こうした解釈の中では、キリスト者として生活していても、どこかぼやけて、はっきりとした確信がもてないまま、無意識のうちに律法をけむったい存在として避ける習慣が身についてしまっていることもあります。また、獏とした中で信仰生活をおくっていることはなかったでしょうか。
けれど、パウロは「決してそんなことはありません。罪に対して死んだわたしたちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」(ローマ6:2)と言っています。聖書のことばを曲解して受け取ることに慣れてはいけません。律法を失うことは福音を失うことにもなりかねからです。
律法の働き
主イエスご自身は、安息日の戒めに対する理解がパリサイ人たちとは違っていました。例えば、安息日に弟子たちが麦穂を摘み始めたことに対して、パリサイ人は「なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」(マルコ2・24)と咎めましたが、イエス様は、「安息日は人の為に設けられたのです。人は安息日のために造られたのではありません。」(27)と、麦穂を摘んだ弟子たちを擁護し、パリサイ人たちに正しい安息日の理解を教えられました。イエス様は決して律法を否定されたのではなく。マタイ5・17では「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」とも言っています。
使徒パウロもまた、「行いの法則」よりも「信仰の法則」を強調しながらも、ローマ3・31では、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。」と言っています。
アウレンという神学者は、「キリスト教生活においてもまた、律法は、罪を自覚させるものとして、また愛の業を喚起し、それに追いやる力として、律法の機能の二つの面において働きをなす」と言っています。律法については多くの人たちがこのような理解をしています。
キリストによる新しい義
イエス・キリストは、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)と言われましたが、ここでの義はどういう義しさを意味しているのでしょうか。パウロは、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」「それは、肉に従わず御霊に従って歩むわたしたちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2,4)と言っています。この言葉の意味は、自分を律して義しく生きることを勧めているのではなく、キリストによってのみ与えられるところの新しい「義しさ」によって生きることを語っています。
「パリサイ人にまさる義」とは、パリサイ人よりもいっそう厳しく戒めを固守することではなく、神の前に罪人でしかない者にキリストが与えてくださる新しい「義しさ」であり「新しいいのち」(ローマ6:4)による義のことです。ですから、「新しい義」とは、古い律法を廃したのでなく、義を成就されたキリストによる義しさのことで、イエス様が私たちに要求されている「パリサイ人の義にまさる義しさ」とは、「キリスト抜き」で律法によって生きることではなく、「キリストによる義」即ち、「恵みによって生きる」ことに他なりません。まさに、十戒はキリストの福音であり、めぐみによって生きる者への愛の律法なのです。
参考図書 関田寛雄著「十戒・主の祈り」から