2024年1月1日元旦礼拝メッセージ

「愛からの出発」

聖書:ヨハネの手紙第一 4章6-11節(新p483)

メッセンジャー:高江洲伸子師

 年頭に、私たちの信仰生活の出発点である「愛」について考えてみました。
愛の種類
 ひとくちに「愛」と言ってもさまざまな愛があります。今朝は三種類の愛について考えてみました。「もしもの愛」「だからの愛」「にもかかわらずの愛」です。 
 「もしもの愛」は、条件付きの愛です。この愛について逆から考えると、相手にそれだけの条件が備わっていない場合には、「だから私はあなたを愛さない」という残酷なメッセージを発信していることにもなりうるわけです。       
「だからの愛」もまた同様で、「あなたは頭がいいから」「あなたは地位があるから」「あなたはみんなに人気があるから」愛するというもので、何らかの理由や根拠に基づいて、相手を愛しているのです。たとえば、親は子どもがかわいいから愛するでしょう。しかし、「かわいいから」という理由や根拠は、いつまでも続くものではありません。成長するにつれて反抗し、ちっともかわいくなくなるかもしれません。どんなに仲の良い夫婦でも、親子でも、兄弟や友達同士でも、いつか愛に疲れを覚えることがあります。若さも、力も、お金も、みんな変化してゆくものです。変化するものを根拠にした愛は、うつろいやすく、いつ破綻がやってきてもおかしくありません。
「にもかかわらずの愛」はどうでしょう。新約聖書ローマ人への手紙5章6-8節にはこのように書かれています。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためにであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。聖書が私たちに語りかけているのは、この「にもかかわらずの愛」です。「弱かった」「不敬虔な者であった」「罪人であった」にもかかわらず、愛する愛です。

南米エクアドルで殉教した5名の宣教師
  1956年アメリカ人の宣教師ジム・エリオット、ピート・フレミング、エド・マッカリー、ネイト・セイント、ラージャー・ユーデリアンの5名が、南米エクアドルのジャングルで殉教しました。彼らは、ジャングルに住むアウカ族に福音を伝えようとして惨殺されたのでした。「アウカ」とは「槍で人を殺す人たち」という意味です。けれど、アウカ族の人たちは自分たちをワオラニ(人間)と呼んでいました。アウカの人たちは、「外部の人たちは自分たちを食べようとしている」と思って、外部との接触を一切断ち、自分たちの領域に近づく人たちを殺してきていたのです。5人の宣教師が殉教して数年後、殺された宣教師の夫人たちがアウカ族に福音を伝えるためにこの地に赴きます。やがて、アウカ族の中にイエス・キリストを信じる者が起こされていき、現在、ワオラニ族ではいくつかの集落で礼拝がささげられていて、他の部族への伝道も進められているというのです。1992年には、ワオラニ語の新約聖書も完成しています。

   大方の人は、自分に悪いことをした人、自分を苦しめた人のために死ぬことなどできません。しかし、キリストは、私たちが罪人であった「にもかかわらず」私たちを愛して、十字架の上で死んでくださったのです。
  水は、蛇口だけでは出てきませんが、水源につながると出てきます。「にもかかわらずの愛」は、人間の肉の内からは出てきませんが、私たちがまだ罪びとであった時に命を捨ててくださった、愛の源である神に立ち返り、神の愛を知り、神の愛に生かされる時、私たちの内にもまた「にもかかわらずの愛」が、源流である神の内から流れきて、その愛の内に育てられていきます。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげものとして御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(ヨハネの手紙第一4:10) 聖書は、ほんとうの愛が「ここにある」と、イエス・キリストの十字架を示しています。神の愛は、人間の努力で勝ち取ることができるようなものではありません。こんなに真実に愛してくださる神の愛を、私たちも精一杯の真実で受け入れること、それ以外に私たちにできることはありません。そして、神のこの大きな愛を受けた人は、神に愛されていることから来る深い平安を体験し、人生を力強く歩みます。新年の祝福もまたここから流れ出てくるに違いありません。   <参考 ネット「ペンギンクラブ」>

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