12月17日礼拝メッセージ

  -待降節によせる主の祈りⅤ-
 「悪からお救いください」

聖書:マタイの福音書6章9-13節(新p10)

メッセンジャー:高江洲伸子師

 第4番目の祈りが「過去」におかした罪に関する願いであるとすれば、第5番目の祈りは将来に対して、罪の支配から免れるための祈りとも言えます。

試みにあわせず
主イエスはゲッセマネの園で「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と繰り返し弟子たちに言われましたが、それは、決して、一人一人がささいな罪を犯さないように、という思いでそのように言われたのではありません。
ご自身に迫っている十字架という大患難を前にして、その苦しみが弟子達に及ぶことを恐れながら、心配して、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」(マタイ6:13)と祈る必要を覚えられたからです。
 「あわせず」は「導かず」の意味があり、「導く」は移動することをさしているところから、この祈りは、「立つべきところに堅く立って動かされることのないように」と祈ることが目的とされています。(コリント第一15:58、詩編16:8)。
「試み」は「試練」と「誘惑」と捉えることができます。「試み」を試練として捕らえれば、ヤコブ1:2.12のように、前向きにとらえることもできますが、「誘惑」と考えるならば、1:13のことばとは矛盾するとも考えられ難解な箇所でもあります。「試み」を「試練」として捉えると、信仰の確立、訓練という積極的意味に解釈できます。また、試練を通して高められ、神の義の栄光を見るという、教育的意味が考えられます。(S・ピラーベック)しかし、「誘惑」として捉えると、「神は…ご自分でだれかを誘惑することもありません」(ヤコブ1:13)と記されている通り、神からきているとは考えられません。誘惑は人の弱さ(マルコ14:38)、罪(マタイ18:7)、欲(ヤコブ1:14)といった人間の弱さに働きかけてきます。

<試練と誘惑>
私たちの生活は「試練」と「誘惑」の連続であるとも言えます。人間は生きている限り「あれか、これか」の決断が問われ続け、その中で自由の意志をもって、如何に神のみ旨に沿って生きるかを選択し続けているとも言えます。けれど、その自由意志で、自分にとって都合の良いように考え合わせて、神の戒めを踏み越えようとする傾向をもっているので注意が必要です。イエスの母マリアが戸惑いの中にも、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と神のみ旨に従う選択を決断するとき、私たちもまた、聖霊と一つとされる勝利を経験することでしょう。けれど、誘惑は常に働いて、神のご意志(み旨)から遠ざけようと働きかけてきます。その選択の結果で試練であったか、誘惑であったかが、明らかにされることでしょう。
誘惑の山で主イエスは悪魔の誘惑に対して、確固として「サタンよ退け」(マタイ4:10,16:23)と言われましたが、十字架を前にしたゲッセマネの園では、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)と天の父の力に頼り祈られました。まして、私たち人間はこうした試みや誘惑に対しては全く無力です。それゆえ主イエスは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と弟子たちに勧められました。「私たちが神と交わることこそが、試みる者に対抗する最大の武器であることが明らかにされる」とティーリケは言っています。自分の力の無さを認めつつ、「みこころのままに」(マルコ14:36)と祈ることこそ誘惑に打ち勝つ秘訣です。
 「誘惑」の目的は、神無くして生きる者にさせるところにあり、誘惑の恐ろしさは、神無くして始めたことが最初のうちは成功するところにあります。「成功は、最も良くきく麻酔薬である」(ティーリケ)とも言われています。
 
悪より救い出したまえ
原文は「救い出したまえ、我らを、悪しき者より」。「救い出したまえ」は、「囲みを解いて逃がす」、危険から「ひきずりだり出す」と言った意味があります。
 ルターはここでの「悪」を「不和、飢饉、戦争、ペスト、患難、地獄、肉体とたましいにおけるあらゆる苦痛」等をあげていますが、ユダヤ的思考とすれば、「悪しき者」を指していると考えられます。また、終末的状況からすれば、あらゆる「悪」は誘惑者、敵、悪魔からのものと考えられます。サタンは人間の衝動を挑発して罪へと誘惑し、人間の身が危険にさらされる時を好機として神の前に人間を訴え中傷致します。更には人間を「死」へと向かわせます。
「世に在っては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)。2000年前この世に来てくださった御子イエス・キリストはユダによって銀貨30枚で祭司たちに売られ、十字架につけられ殺されましたが、復活されて、死は勝利にのまれてしまいました。私たちはには、すでにこのお方によって勝利が与えられていることを大胆に信じて、御前から動かされることなく「試みにあわせないで、悪からお救いください」と謙って祈る者たちとさせていただきましょう。サタンの力は侮れませんが、その力は偽りの能力にすぎません。
参考図書 関田寛雄著「十戒・主の祈り」N.T.ライト「主イエスと主の祈り」

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