-待降節によせる主の祈りⅡ-
「御国が来ますように」
聖書:マタイの福音書6章9-13節(新p10)
メッセンジャー:高江洲伸子師
「御国が来ますように」-主の祈りⅡ-マタイの福音書6章9-13節(新p10)
「天にいます私たちの父よ」と祈り始める主の祈りは、メシア到来を待ち望む祈りであるということを前回学びました。主の祈りのⅡでは、「御国がきますように、みこころが行われますように」と祈る祈りの真意について学びます。
「御国がきますように。」
この箇所は、最も再臨のキリストを待ち望む祈り、即ち終末論的な祈りが鮮明に現れている箇所であると言えます。
イエス様の宣教の中心は「神の国の福音」でした。ユダヤ教徒の人たちも「神の国」の到来を待ち望んでいましたが、彼らの神の国待望は、イスラエルの国の復興という国家主義に結びついていました。けれど私たちはイエス・キリストを通して神の国の真意を知ってゆきます。
イエス・キリストはヨハネの福音書3章3,5節で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。…人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。「神の国」を表すギリシャ語「バセレイア」は「神のご支配」という意味がありますが、人は罪が支配している世界から神がご支配される世界に移されなければ、神の国の真意を知ることはできません。
オリゲネスという神学者は、「イエスその人が神の国だ」とも言いました。イエス・キリストこそが真に神の国の意味を成就するお方であり、私たちがその新しい秩序である神の国に入る「門」なのです。
さらに、ヨハネの黙示録に描かれている神の国の到来について見てみましょう。そこでは、地上から天に連れ去られてゆく人間が描かれてはいません。聖なる都、新しいエルサレムが天から地に降りてくるのです。(黙示録21:2)。そこでは、神の空間と私たち地上にいる者たちの空間が結び合わされているのです。それこそが「御国が来ますように」という祈りが指し示しているところのものです。
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」
神の「みこころ」とは人間を祝福される神の目的のことであり、神のご計画です。それは、父なる神の選民に対する慈愛のご計画です。<ルカ12:32、詩編33:11、エレミヤ書29:11>
では、人間の自由意志との関係はどのように受け止めれば良いのでしょう。神自ら全てをなされるならば、祈る必要もないのではなかろうかという見解。また、自分が何をしたいのかはあまり重要ではなく、神が本当に望んでいる事の為に我慢しなければならないという感覚が私たちのどこかになかったでしょうか。その見解に関するヒントは、ゲッセマネ園で「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:36)と祈られた主イエスの祈りにあります。ここで御子は父なる神のみこころに従われました。この祈りを通して私たちもまた、「神によって私自身の意志を貫く」という自己本位の信仰から、自らの選択によって、「私を通して神の目的が成される」ことを願うという信仰の飛躍を見ることができます。
ヤコブ書4:15節には、「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」と書かれていますが、最終的な神の意志への服従こそが人間に真の自由を与えます。このことについて、関田寛雄師は著書「十戒・主の祈り」の中で次のように書いています。
(以下抜粋)「神の自由意志は人の自由意志を矯(た)める<※物を曲げること>のではなく、人をして人のいわゆる自由意志をなさしめる。逆の表現を使うと、神の意志に従うものが初めて真の自由を味わうことになる。」(カトリック キリスト教研究ろごす第5巻)ということばは「そは自由意志は自我的なものを求めないで、ただ神の意志のみを見る意志であるからだ。かくしてこそ始めて自由意志は何ものにも捉えられず、また何ものにも執着することもなく、自由であるのだ」(ルター『主の祈りの講解』)ということばと共に聞くべきものでしょう。神の自由と神の摂理とは、深い意味において逆説の関係ではあっても決して矛盾の関係ではありません。(ピりピ2:13)p143-144
ルターは、キリスト者の自由について、「誰の奴隷にもならないが、全ての人の僕になる」と言いましたが、その自由は自分という自我からの自由があるからに他なりません。そのような意味において、「みこころ通りにしてください」と祈れるのは、真の自由を得た人であるということを意味していると言えます。
参考図書 N.T.ライト著「主イエスと祈り」関田寛雄著「十戒・主の祈り」