-待降節によせる主の祈りⅠ-
「天にいます私たちの父よ」
聖書:マタイの福音書6章9-13節(新p10)
メッセンジャー:高江洲伸子師
11/5礼拝-待降節によせる主の祈りⅠ-「天にいます私たちの父よ」マタイ6:9-13
「主の祈り」は、マタイの福音書は山上の説教の中で語られていますが、ルカの福音書では、ガリラヤ伝道のさ中に、弟子たちがいつも祈っているイエス様の姿を見て、「私たちにも祈りを教えてください。」(ルカ11:1)と願いでているところに端を発しています。この時の弟子たちのように、私たちがキリスト者として真摯に生きようとするとき、祈りについて学び、成長したいと願い始めます。
もっと神を知り、神を愛したい。神を心から「父」と呼べるようになりたいと思う思いは祈りとなり、更に主を知ろうとして求めてゆきます。
主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」と親しみを込めて神を父と呼ぶところから始まっています。けれど、果たしてどれだけの人がどれ程の確信をもって神を「父」と呼んでいるのでしょうか。実は「主の祈り」は最も成熟したキリスト者の完成した祈りなのです。にも拘わらず、私たちはその実をあまり知らないまま、口ずさんでいることがほとんどです。それは、まるで小学生の子どもが大人のスーツを着ているかのようでもあります。確かに、子どもが大人のスーツを着るとブカブカではありますが、その服の中で子どもは成長し、やがて、ピッタリになることでしょう。そのように私たちは、キリスト者として主の祈りを唱えつつ成長してゆきます。
「天にいます私たちの父よ」
神を「父」とした最初の箇所は出エジプト記にあります。モーセがファラオの前で言った言葉、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す」(出エジプト4:22,23)。この時、イスラエルはエジプトの奴隷でしたが、奴隷が自由にされ、神の子と呼ばれるべく召しだされたのでした。
イエス・キリストが弟子達に、神を「父」と呼ぶように言われた時、イエス・キリストは私たちに新たな出エジプトの準備をすることを望んでいたのです。イエス・キリストの御降誕は、「私たちはついに自由になる」と言う希望でした。御国が到来すると言う希望です。私たちを罪の囲いの中に閉じ込め、雁字搦めにさせている暴君からの支配が破られ、私たちに自由が訪れるという希望です。
イザヤ書ではこの約束がすべての神の民に開かれていると述べられています。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るが良い。…そうすれば…わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」(イザヤ55:1,3)。バビロン捕囚の中でもイスラエル人は出エジプトの希望を抱き続けていたのです。
イザヤ書は63章で、「たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です」(16)と書かれています。つまり、国家としての希望が失われ、安心だと思っていたものが塵灰に帰してもなお、主が自分たちの父であるという事実をしっかりと握りしめ、イスラエルの人たちは「神は新しい、しかも最後の出エジプトを与えて我らに自由を与えられる」と確信し、過越しの祭りを祝い、詩編を通してその確信を歌ってきたのです。
主の祈りの最初の言葉には、「メシアによる解放の業が、いま、私たちに起こるようにしてください。私たちの父よ」という意味が含まれていたのでした。
「父なる神と子なるキリストの従順」
「父よ」との呼びかけから主の祈りを弟子たちに教えられたイエス・キリストは、ゲッセマネの園で、もう一度神を「父」と呼びました。当時の文化では、息子は父の見習いとなります。息子は父親の仕事ぶりを見て仕事を覚え、問題があれば父親がどのように取り組んでいるかを確認します。イエス・キリストは、ゲッセマネで突然暗闇が彼の人生を被った時、「父よ、この道でいいのですか?これが本当に正しい道なのでしょうか?私は本当にこの杯を飲まなければならないのでしょうか?」と問うたのです。
へブル書は御子が「苦しみによって従順を学」(5:7-9,2:10-18)んだと述べています。息子が父のみ旨を確信し、父と子が共に取り組んで、イスラエルと全世界を、悪と不正、恐怖と罪から救い出すという新しい出エジプトの御業をされようとして下さっていたのです。そして、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)とその業を完成されたのです。私たちが「天にいます私たちの父よ」と祈り始める時、「どうか私もあなたに見習う子どもとお考えください」と静かに言う大胆さも含んでいることを知ってください。
ヨハネの福音書の最後で、イエス・キリストは弟子たちに、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたを遣わします」(20:21)と言われました。私たちは二つのアドベント(待降節)の間に生きています。つまり、御子がこの世に来られた最初の大いなるアドベント(初臨)と御子が力と栄光をもって再び来られ、生ける者と死ねる者を裁かれる第二のアドベント(再臨)です。
参考図書 「イエスと主の祈り」-待降節によせる説教- N.T.ライト著