「新しい出発」
聖書:コリント人への第二の手紙5章17節(新p361)
メッセンジャー:高江洲伸子師
2023/10/29 礼拝説教「新しい出発」コリント人への手紙二5:17
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17
贖い
ある時一人の少年が雀を捕まえました。少年がきつく握りしめていたので、その雀はブルブルと震え、しきりに逃げ道を捜していました。それを見ていた人が、「その鳥は捕まえても、何の役にもたたないだろうから、逃がしてやりなさい」と言いましたが、少年は「3時間もかかってやっと捕まえたのだから、絶対逃がさない」と言いました。どんなに言っても、少年は逃がすとは言いませんでした。それで、その人はとうとうその雀をお金で買うことにしました。少年はその値段に納得して、雀を売ることにしました。代金が支払われ、少年の手からその人は雀を受け取って手に乗せましたが、少年の手にきつく握られていたその雀は、しばらくは自由になったことがわかわず買い取られた人の手にとまっていましたが、少したつとあたかも「ありがとうございます、私を買い取ってくださって」とでも言うかのように、飛び去って行ったのでした。これが、「贖い」です。買い戻して自由にすることを意味しています。
イエス・キリストは、自分のプライドで強く握りしめられ、愛する自由も赦す自由も持たず、罪と慾の支配から抜け出せないでいた私たちを解放してくださるために支払われる代価として来られました。
罪の支配の中にあった私たちですが、イエス・キリストの命の代価が十字架上で支払われ、贖われたので、今は、キリストのうちにあって新しく造られた者とされました。」(二コリント5:17)。
命の種
キリストは「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)と言われました。地の中に何十万円もするような高価な時計を埋めても、決して芽を出すどころか、錆びて使えなくなるだけでしょう。けれど、種を植えると、それがどんなに小さくても、やがて発芽し、育ち、実を結ぶ時を迎えます。イエス・キリストのみことばはいのちの種です。私たちの心の中にその種が蒔かれると、新しい霊の命が芽生えて、時とともに育ち、やがて私たちの人生に豊かな実を実らせます。
新しい出発
聖書は「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)と書かれていますが、「私は人に害を与えたこともなく、むしろ親切な方で、まして罪人呼ばれされるのは心外だ!」と思う人は少なくないかもしれません。そのような意味では、自分を罪人であると認めたクリスチャンはこの世にあっては、本当に少なく、マイノリティーに属すると言えます。
けれどもキリストは、人の心についてこのように言われています。「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出てきて、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)。例えば井戸から水をくみ上げるとき、底にお泥があれば、きれいな純粋な水を得ることはできないでしょう。しかし、そのような罪のお泥が私たちの心の底に沈んていたとしても、「もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9) そして、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)。
ヨハネの福音書には、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(1:11,12)と書かれています。
先週のウエルカム礼拝で、私たちは講師の横田先生を通して、「私の罪をお赦しください。イエス・キリストを私の人生の主として受け入れます。」と祈りました。その祈りの如く主がしてくださいますように。「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」。一人一人の思いは違っていても、神様がその祈りにお答えくださるに違いありません。そこから、新しい出発は始まってゆくのです。
参考図書「神にはできなないことはありません」ムーディ著