10月1日礼拝メッセージ

「苦難を越えさせる神の愛」

聖書:ローマ人への手紙8章31-39節(新p310)

メッセンジャー:高江洲伸子師

使徒パウロは、エペソ人への手紙のさいごで、敵である悪魔に勝利する秘訣を書きましたが、ここ、ローマ人への手紙8章31からは、クリスチャンが勝利に導かれる理由について書いています。
 
1.神が私たちの味方(God is for us)だから。(31)
「味方」という原語(ヒュペル)は、「…のため」とか「…に変わって」と訳せる言葉。英語聖書はfoe usと訳しています。神が味方であるということは、神が私たちの側に立っていて下さるということです。

2.ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神だから。(32)
「御子をさえ」のことばの中には、それだけ大切な存在であることが含まれています。それは丁度、アブラハムが大切な一人子イサクをささげたように、神もまた、その一人子をも惜しまず、私たち人間のためにささげてくださったのです。
「渡す」(パレド―ケン)は「見放す」という意味もあり、「死に渡された」は、父なる神が子なるキリストを死に至るまで手放してくださったということ。それは、ただ人類を愛しているという。それだけの理由でした。

3.「御子とともにすべてのものを、私たちに、恵んでくださらないことがあるでしょうか」(32)「御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(口語)。
28節には、「神を愛する者たち、すなわち。神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて、益となることを、私たちは知っています。」ともあり、私たちの側にいてくださる神は、三位の神と共に働いて、「御子のみならず万事をも」賜って益となるべく取り計らって下さるのです。

4.キリストは私たちのためにとりなしておられるから。(34)
 「訴える」のは誰か。それはサタンです。ゼカリヤ3章では、サタンに訴えられている大祭司ヨシュアを援護し、主は、サタンをとがめられました(ゼカリヤ書3:1-4)。キリストに在る者は神が仲裁して下さり、十字架の死をもって義として下さるので、どんなにサタンに訴えられても私たちが断罪されることはありません。へブル7:25には「彼はとりなしておられるので…いつも救うことができる」と書かれています。「神の右の座につき」とは、キリストが勝利者とか、弁護者の立場に立っていることを示しています。

5.神の愛がキリスト者に勝利を与えるから。(35-39)
  35-39節は、人間を取り囲む様々な問題や苦悩(35,38,39)の中での勝利の賛歌です。この困難や苦悩は大きく二種類に分けることができます。
A 人間がもたらすもの。
「苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、
剣ですか、」(35)これらは、パウロが過去受けた苦難であり、キリスト者が常に悩まされているものですが、キリストご自身も地上で受けて下さった苦難でした。パウロはこの苦難の中にいるキリスト者は、44:22を引用して十字架のご苦難を共に負っているかのようであると、言っています。
B 人間以外の超自然的な力をもつものからきているもの。
「死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、」
(38,39)、これらは、超自然的な力をもつものを表し、それぞれの時代を支配いる権力、戦争を起こさせる力の背後にあるサタン的な力のことを指していると受け止めることができます。「高いもの、深いもの」は、「世の霊力」(ストイケア)は、世界を支配する超自然的な、霊的な存在者のことを意味しています(8:15)。パウロがどこまでそれを信じたかはわかりませんが、私たちが生きている限り、こうした困難に遭遇致します。けれどキリスト者は、この困難の中で、「わたしたちを、愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(37)のです。そして、この「キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」のです。

さいごに世界に名だたる聖書学者ウイリアム・バークレー博士の言葉をご紹介いたします。「生も死もわれわれをキリストから引き離すことはできない。生においてキリストと共に生き、死において彼とともに死ぬ。それはわれわれが彼と共に死に、彼と共にまたよみがえるからである。そして死は別離であるどころか、彼により近づく一歩なのである。死は終わりではない。ただイエス・キリストの御前に導く『天涯の門』である。」バークレー聖書註解8p154から

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