「光の子らしく歩きなさい」
-エペソ人への手紙(12)ー
聖書:エペソ人への手紙5章8-14節(新p390)
メッセンジャー:高江洲伸子師
植物が育つためには光と水と空気、この三要素必須です。昨今のあまりの暑さに強烈な太陽光線から守ろうとして、ガーデンシクラメンを日陰に移したところ、みるみるうちに枯れてしまいました。そうかと思うと、かんかん照りの日差しの中でも、水を与えているだけなのに、ぐんぐんと育っているのも見つけました。
私たちクリスチャンもまた、キリストに出会う前は、光の無い闇の世界の中で、手探り状態で歩んでいました。けれども今は、光であるキリストに出会って、神の光の中で育てられています。私たちにとって光は喜びですが、まだ光に出会っていない闇の子らは光の生活に耐えられません。使徒パウロは、「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」(8)と勧めています。では、光の子としての歩みとはどのような歩みなのでしょうか。
光は良い実を結ぶ
光は花を咲かせ実を実らせてゆくように、聖霊の光の中で、キリスト者は良き実が結ばれてゆきます。パウロは「あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです」(9)と言っていますが、悪意なく、不義なく、偽りがない光の子らしい歩みの中で、光の子としての実が結ばれてゆきます。
そこでパウロは、「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(10)と、キリスト者の絶対規準である、「主に喜ばれるもの」即ち「みこころ」に私たちの歩みが合致しているかどうかを吟味(理論・品質・内容・罪状などについて、詳しく調べ確かめること)させようとしています。口語訳では、「わきまえ知りなさい」。「憂えしめない聖霊の臨在は億万のドルに優る」とはウエスレ―の言葉ですが、光のうちを歩むとは、主のみこころを痛めず、悲しませず、主をお喜ばせする歩みに他なりません。光であられる主は、光に導かれて結実してゆく様を喜び楽しまれるお方なのです。大切なことは、光である主のみこころをわきまえ知ること。ここに光の子の成熟があります。どのような行動をとれば主は喜んでくださるか、これを見極める霊的感覚を養う能力を身につけたいものです。
光はやみのわざを暴露する
光はまたすべてのものを明るみに出します。暗闇に光が照らされると、闇の中の行為が一瞬にして明るみに出されます。ですから、暗闇で隠れて闇のわざを行っている者は、光を恐れます。そこでパウロは、闇と光の間で闘っている人たちに向かって、「実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。」(11)と勧めるのです。ここでパウロは世にあるキリスト者に向かって、単に闇のわざに加わってはなりませんと勧めただけではありません。もっと積極的に、闇のわざを指摘しなさいと言うのです。暗闇の中で行われている口にするのも恥ずかしい闇の行為を勇気をもって暴露、告白せよと言うのです。時に、沈黙や無言でいることで波風が立たなくて良いと思っていたことが、実は、それが闇の業を肯定し、闇の業に加担していることがあることに、私たちは気が付かなければなりません。 ※2日朝日新聞「折々のことば」ジョン・スチュアート・ミル
光を曇らせてはいけません。ましてやこれを被ってはいけません。勇気をもって罪を暴露し、明るみに出すことです。これが光の子の使命なのです。
光はやみを光とする
光は罪を告発する厳格な性質と共に、それ自身の中に浄化の性質があります。
たとえば、太陽光線にはそれ自身殺菌力と治癒力がありますが、光にさらされ明らかにされたものは光となるというのです。光は闇を光に変えてしまいます。光は闇を、正義は不義を、きよさは汚れを、命は死を征服してしまいます。「闇はこれ(光)に打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5) 「眠っている人よ、起き上がれ。死者の中から起き上がれ。そうすれば。キリストがあなたを照らされる。」(14) 眠りを覚まし、悔い改めて光に向かい、信仰をもって立ち上がる時、上からの霊は注がれ、魂は新生し、キリストが輝き渡るでしょう。
<賀川豊彦>
1909年賀川豊彦は21才で、神戸のスラム街で伝道を開始しました。当時、貧民街に住む人たちの困窮は想像を絶するものがありました。養育費目当てで嬰児を養子にして栄養失調にして殺してしまうもらい子殺しが頻発していた。こうした中で、彼の愛と苦悩の涙の伝道は大きな社会運動へと発展していったのでした。
私たちは主に結ばれて光とされています。時代は暗黒です。光は結実をもたらし、闇を暴露し、きよめます。今こそ光のわざが必要とされています。
工藤弘雄著「高度を上げよ」から