5月21日礼拝メッセージ

-イザヤの召命-「ここに私がおります。」

聖書:イザヤ書6章1-8節(旧p1176)

メッセンジャー:高江洲伸子師

イザヤは北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされた時、南王国の預言者で
した。アッシリア軍の足音がジリジリと南ユダ王国にも忍び来る中、ウジヤ王
の死の知らせを受けて、彼の心は動揺していました。イザヤは、これから南ユ
ダ王国が直面しなければならない困難と危険を覚えると、暗闇に突き落とされ
るような苦しみを覚え、神様に助けと導きを求めて神殿の内庭に入っていった
のです。
 詩篇50篇15節には、「苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助
け出し あなたはわたしをあがめる。」と書かれています。預言者サムエルの誕
生の次第も、子どもがいなかった母ハンナが、ぺニンナにいじめられて、その
苦しみの中から始まった祈りによります。「ハンナの心は痛んでいた。彼女は
激しく泣いて。主に祈った。」(サムエル記第一1:10)。
 私たちが苦境に陥る時、その苦しみの背後には、その苦しみを知っておられ
て、尚且つ、そのような状態を容認しておられるお方がおられて、その容認も
また何らかの意図があると、受けとめることもできます。
イザヤが国の不安定な政情に苦悩する中で、御前に行き、清く聖なる方の臨
在の中で見せられたのは、「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んで
いる。」(4)という、内心に潜む罪と汚れだったのです(5)。イザヤが聖霊の示す
その自分の裸の姿を認めた時、セラフィムは、祭壇の上で燃えている火をとっ
て、彼の唇に触れ、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取
り除かれ、あなたの罪も赦された。」(7)と、罪の赦しの宣言をしたのでした。
この祭壇の火は、イエス・キリストの十字架によって、今も私たちの上に燃え
続けています。罪と汚れの縄目から解放された時、イザヤは、「だれを、わた
しは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(8)と自分に語りか
ける主の御声を聞くことができたのでした。
 
 私はこのみことばを20歳少し過ぎたころ、塩屋聖会で聞きました。連休シー
ズン、泊まり込んで聖会に出席していた時のことです。次々と語られるメッセ
ージは、まるで、私の内にある言葉にできない弱さや肉の性質を次々とあばい
てゆきました。当然、自分自身の心は痛みます。人が自分の裸の姿を見せられ
て心地良いわけがございません。けれども、乾いたスポンジが水を吸うかのよ
うに、心の中にみ言葉が入ってきて、内面の汚れがみことばと聖霊によって癒
されていったのです。「そして、御子イエスの血が全ての罪から我らをきよむ

」、今も忘れられない私に語られた主のみ言葉です。
 聖会のさいごの集会で、本田弘慈という先生が説教されました。「あなたは
なぜそんなに魂が恵まれていますか、それは、受けた恵みを未だ知らない人に
伝える為に、神様があなたを恵まれているからです。」と語られました。そし
て、その恵みを伝えるために、「ああ、誰か私の為に行くだろうか」と、まる
で、神様が直接私に語りかけておられるようでした。その招きに「こんな者で
も宜しければ、」と、思わず立ち上がったのですが、直接献身は、その時まで
自分の人生の選択肢には全くなかったことだったので、「困ったことになった
」と思ったほど、献身といった生き方からは遠い存在の者でした。その時私は
ただ純粋に、語られたみことばへの応答しただけだったのです。
 
やがて、「あなたは私に従ってきなさい」という御声を直接頂いて、神学校
に行くことになりましたが、伝道者生涯の終盤を迎え、たとえ神学校に行くと
いうことでなくても、家庭にあり、職場にあり、どこにいても、「私は主のも
のです」「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と立ち上
がる人を、
神様は決して軽んじられないことを知らされるのです。
たとえ小さく弱く、何ら取り柄のない器であったとしても、神様は神にささ
げた器を御手の中に握りしめて、神様の御用をする器として用いてくださるこ
とを確信致します。そのような人は、教会の片すみにいても、輝いています。
何もしていなくても、誰かの慰めになっています。存在が無いようでいて、実
は教会の空気となっています。
教会は、このような神の召しに応えた器によって建て上げられてゆきます
。(ロ一マ人への手紙12章1節)

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