「二つのものを一つに」
-エペソ人への手紙(4)-
聖書:エペソ人への手紙2章11-22節(新p386)
メッセンジャー:高江洲伸子師
隔ての壁である敵意を打ち壊し
2章1-3節では、キリストに出会う前の、かつての姿が描かれていましたが、
11節でパウロは再び「ですから、思い出してください。」と、神の作品とされる以前の私たちの姿を示します。それは、神から証印を受けていない「無割礼」の者であり(11)、「キリストから遠く離れ」(12)、神との契約の民でもなく(12)、「この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」(12)と。しかし、ここで大どんでん返しが起こります。13節で使徒パウロは、「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」(13)と言うのです。
1871年エルサレムの神殿が発掘された時、「他の国民はいかなる者であっても、この障壁内、神殿周辺の構内に立ち入るべからず。しかして、あえてこれを侵犯する者は、誰にても死罪に処すべし」と書かれた碑文が発見されました。「異邦人の庭」とユダヤ人だけが入れる庭との間におかれた大理石の壁です。それほど厳格にはっきりと選民ユダヤ人と異邦人との間には敵意の壁が現存していました。しかも、その敵意の壁はユダヤ人の人たちの中にだけあったのではなく、異邦人の中にも、今もなお根深く残っています。
それだけではなく、この「敵意の壁」は、全世界の人の心の中にも現存している壁なのです。「『敵意』は、恐怖心や警戒心、怒りや憎悪、恨みや恥、復讐心などといった感情と結びついた人間の奥底にある根深い感情なのです。敵意は、自分を守ろうとして、徹底的に敵を排除しようと身構え、本能的に相手に防戦するための本能的な感情でもある」と、銘形秀則氏は言っています。けれど、イエス・キリストの十字架によって、人間の奥底に潜むこの敵意の隔ての壁もまた取り除けられたのです。(14-16)
二つのものを一つに
コリント人への手紙第二5:17,18では、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。
2千年前にイエス・キリストが来られたことによって、地上に新人類団が誕生したのです。真の平和(14)として来られたキリストは、「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄され」(15)、ユダヤ人と異邦人の壁を取り除き、二つのものを一つとされました(14)。「キリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し」(15)、「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(16)。今、私たちは、「このキリストを通して、…一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」(18)。
イエス・キリストが永久的に完全な罪の贖いの為に、燔祭の子羊として十字架に屠られたことにより、旧約の犠牲のささげものは必要がなくなり、私たち異邦人であった者も、私の罪の贖いとしてイエス・キリストが十字架におかかりくださったと信じる時、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1:7)。その時、心に割礼を受けたものとして受け入れられ、もはや選民も異邦人もなく、心の奥に潜む罪の縄目から解放されて、自由の心を持つ者とされます。
神の家族
教会は、「敵意」が十字架につけられ、心の壁が打ち壊された者たちの集まりです。キリストの教会は、キリストご自身を要の石として「建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」(21)。それ故、横浜栄光教会に集う一人一人は出身地も、育った環境も皆違っていながら、「聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」(19)。
神の家族として私たちは、この和解の福音を未だ知らないで、防衛本能から来る敵対意識で雁字搦めになっている人たちに伝えてゆく債務を負っているのです(コリントの手紙第二5:18)。