「十字架のことば」
-マルコの福音書に学ぶ㉖-
聖書:マルコの福音書15章33-39(新p103)
メッセンジャー:高江洲伸子師
イエス様は十字架の上で、息をひきとりになる前に、アラム語で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34)とお叫びになりました。その時言われたそのままの言葉で書き伝えられているのは、それが決して創作ではなかったことを示しています。ですから、この言葉の意味を正しく理解することは、十字架の意味を真に知るうえで、とても大切なことです。
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34)
まず、第一に、この言葉はイエス様が十字架の上で単に肉体の苦痛をお受けになったというだけではなく、神にさえも見捨てられるような、恐ろしい経験をなさったことを示しています。
大きな苦しみに出会うと私たちは、「神も仏もあるものか」と言いますが、それは、神に捨てられる以上に人間にとって恐ろしいことはないという事です。死の本当の恐ろしさは、単なる生物的な死への恐れではなく、神に見捨てられた人間が、死によってどこへ逝くか分からない恐れです。
私たちは、見放され、独り置き去られ、忘れられてしまうことを恐れます。村八分や、仲間はずれにされることが一番恐ろしいのです。死は私たちが所属し、依存してきた全てのものから引き離して、独りにしてしまいます。そのうえ、神にさえ見捨てられなければならないとしたら、これ以上恐ろしいことはないと言わなければなりません。
へブル人への手紙9;27には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」と書かれていますが、人間は、他の生物のように、自然に死ぬだけではありません。神に背いた罪の総決算が、死によってなされるのです。罪を赦されないまま死を迎えるとき人間に待っているのは、神の裁きであり、神から見捨てられることです。(霊的死は生きている中で、罪によって神と絶縁され、すでに始まっていますが、)従って、私たち人間が考えなければならないのは、死の問題ではなく、罪の問題です。罪の問題が解決されなければ、私たちは決して安心して死ぬことはできません。
イエス・キリストは私たちに代わって、神に身捨てられるというお苦しみを受けて下さり、十字架の上で息をひきとられました。それは、神に見捨てられなければならない(神と絶縁状態にある)罪を、取り去ってくださる為でした。
十二時になったとき、闇が全地をおおい(33)
旧約聖書のアモス書8:9、イザヤ書60:2、ヨエル書2:10には、真昼の闇は神の裁きのしるしであることが記されています。イエス様が息をおひきとりになる前、昼の12時から3時間に亘って、全地が暗くなり闇に覆われました。その時イエス様は私たちに代わって神の裁きを受けて下さり、神から捨てられたのです。
イエス様のさいごは、痛ましく、惨めな死にかたでした。神を捨てた人間が神に捨てられても仕方のないことですが、神と一つになって生きられた、罪のない神の御子が神に捨てられたのです。これはまさに、真昼の暗黒のように、ありえない不条理なできごとだったのです。
私たちは、自分が不完全で、欠点の多い人間であることはよく承知していますが、罪に対する私たちの自覚は極めて曖昧です。ヨハネ3:19には、「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」と書かれています。不信仰や自己中心から来るこうした罪の習性は、みそぎやおはらいを受けることによって拭い去られたり、修行や教育によって、克服されるような、生やさしいものでありません。それは、全く罪のない神の子が私たちの罪を負って、十字架で死んで下さらないかぎり、決してとり去られることができない根深いものであり、私たちの心のもっとも深いところをむしばんでいる、絶望的な病なのです。
「この方は本当に神の子であった。」(39)
もし、私たちがこの様な絶望的な苦しみに合ったとしたら、「神も仏もあるものか」と言って、取り乱してしまうでしょう。しかしイエス様は、十字架の苦しみの中で、最後まで父なる神への信頼を失うことなく、神の御思いにそっておられたのです。その御子の最後の姿を目撃した、異教徒であるローマの百卒長でさえ、「この方は本当に神の子であった」と告白せずにはおれなかったのです。
(コリント人への手紙 第一1:18)