3月26日礼拝メッセージ

「ゲッセマネの祈り」

 -マルコの福音書に学ぶ㉕-

聖書:マルコの福音書14章32-42(新p99)

メッセンジャー:高江洲伸子師

 メル・ギブソン監督の映画「パッション」は、ゲッセマネの祈りの場面から始まります。「ゲッセマネ」の名前は「油絞り」という意味です。当時そこには、オリーブ油の搾油所がありました。イエス・キリストは最後の晩餐の後、十字架を前にして、ゲッセマネで汗が血のように滴り落ちる中、御心を求めて祈られたのでした。

イエスの苦悩
人は「死」を前にしてどれだけの苦悩を覚えるのでしょうか。十字架を前にして、キリストが迎えようとしている「死」は、尋常のものではありませんでした。その死は、人間への愛ゆえの死でしたが、きわめて残酷で、惨めで、みすぼらしく、しかも、誤解され、嘲られ、唾を吐きかけられ、ののしられながら死んでゆく死なのです。私たち人間は、恐らく誰一人として、この死を前にして、ゲッセマネで祈られた時のイエス・キリストの苦悩を推し量ることはできないでしょう。この祈りの為に、「天から御使いが現れてイエスを力づけた。」(ルカ22:43)とルカは記しています。

ゲッセマネの祈り
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」(36a)
ここでの「アバ、父よ」、これは「主の祈り」の最初の神に対するよびかけの「父よ」(ルカ11:2)と同じです。幼児から大人に至るまで、絶対的な信頼をもって父親に対して呼びかける時に使うアラム語。ここではギリシャ語で「アバ、父よ」と書かれていますが、これは、十字架を前にしてイエスは、絶対的な信頼をもって「父よ」と呼びかけていることを表わしています。
「あなたは何でもおできになります。」これは、「主の祈り」の前半の「御名が聖なるものとされますように」「御国が来ますように」(ルカ11:2)と同様に、ゲッセマネに於いてもキリストは、まず、神を称賛する祈りをささげているのです。
主の祈りでも後半部分では、「日ごとの糧の祈り」「罪の赦しの祈り」「試みから守られる祈り」(ルカ11:3-4)という人間が生きる上で必要なものを祈り求める祈りになっていますが、イエス様もご自分の願いを父なる神のみ前で率直に申し述べて、「この杯を私から取り去ってください」と祈られました。「この杯」とは「苦いぶどう酒」を入れた「苦難」を暗示する「杯」で、ここでは「死」を意味しています。すなわち「死を遠ざけてください」「死を避けさせてください」と願い、祈られています。

「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(36b) そして、最後は、「わたしの望むことではなく…」と、一つの祈りに集約されています。口語訳では「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」と訳されています。「自分の願いよりも神の願いが実現するように」との祈りです。自分の願いは死を避けることですが、最後は神の手に「委ねる」。こうして、心の備えができて、「時が来ました。」(41) 「立ちなさい。さあ。行こう。」(42)と困難や苦難に向かって立ち上がってゆかれたイエス様の御姿を拝することができます。
しかし、「みこころのままに」と全てをお委ねする迄に、苦闘されるイエス様のお姿をマルコは次のように記しています。「深く悩み、もだえ始め、」(33) 「地面にひれ伏し」(35)、これほどの悲しみの中で(34)何度も何度も同じ祈りをささげられ(39)、医者ルカは22:44で、「汗が血のしずくのように地に落ちた」と記したのです。血のしたたりのように全身から汗を絞り出す、雄絶な祈りの場面です。これがイエス・キリストのゲッセマネの祈りの姿でした。

 私たちの祈りの姿勢は如何でしょうか。佐藤彰師は-マルコの福音書に学ぶ-「信仰生活入門」で祈りについて、「➀祈りとは、自分の側からの要求や願いを一方的にぶちまけて。それで終わることではありません。②長く深く祈る中で、神は必ずあなたの心の中に何かを語りかけ示してくださいます。聖書のある箇所を思い起こさせてくださるかもしれません。あるいは、自分の心の状態がよくないことに気づかせてくださるかもしれません。③いずれにしても、祈りの中で、魂の奥深くで、神と真に交わる経験を1つ2つと積み上げていくことです。」と、詩篇62:8を引用されて書かれていました。
 さいごに、やがて、訪れる死の時を予感しながらも、「ただ、みこころがなりますように、願いはそれだけです」と言って天に帰って一人の聖徒の祈りと証を思い出したことでした。

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