「人間の弱さ」
-マルコの福音書に学ぶ㉔-
聖書:マルコの福音書14章17-19節、27-31(新p98)
メッセンジャー:高江洲伸子師
「まさかわたしではないでしょう」(19)
食事の最中、突然イエスから、仲間の一人が裏切るということを聞かされた弟子たちは大変驚くと共に、ひょっとすると自分がイエスから疑われているのではないかと心配して、「まさかわたしではないでしょう」と尋ねました。ここでの弟子たちは、イエスの身の上にふりかかる不幸な出来事を心配するよりも、まず自分が疑われていることを心配になりました。ここに、咄嗟のときに、まず自分の身の安全を確保しようとする人間のエゴイズムが見え隠れ致します。
ユダはともかくとして、ほかの弟子たちにとって、自分たちがイエスを裏切るなどと言うことは、まったく身に覚えのないことですから、自分のことよりも、まずイエス様のことを考えても良い場面です。しかし他人のことよりも、(また、イエス様よりも)、まず自分の身を守ることに関心は高まってしまいました。弟子たちは、いつ裏切りの行為に走ってしまうかわからない弱さを秘めていました。「私は絶対にイエスを裏切ることはない」と言い切れる人は、弟子たちの中にはひとりもいませんでした。彼らはみな自分をまもるために、イエスを見捨てて逃げ去り(14:50)、彼の弟子であることをも否定してしまいました。(14:66以下)
「まさか私ではないでしょう」と言う弟子たちに対してイエスは、「わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。」(20)と言われました。食事を共にしている、もっとも親しい仲間から裏切り者ユダがでたのです。
銀貨三十枚でイエス・キリストを売ったユダは、事の重大さに気が付いた時、自分を赦すことができず、自分の犯した過ちを自分で償おうとして、みずから生命を断ってしまいました(マタイ27:3以下)。私たちもまた、自分の力で事を成し遂げ、自らの能力と力を過信することを警戒しなければなりません。神の愛と赦しを蔑ろにして、自分の力で自分の犯した過ちを全て償うことはできません。それはまた、ユダに通じる道でもあります。
「今夜、鶏がに度鳴く前に」(30)
さいごの夕食が終わってオリーブ山へ出かけて行かれたとき、イエスは弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます。」(27)と予告されました。「つまずく」とは、「罠にかかる」ということで、思いがけない過ちをおかすという意味です。
これに対してペテロは「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」(30)、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(31)と強く言いきりました。
何事にもよらず自信をもつのは大切なことですが、自分自身のもっている弱さに気づかない自信は、身体の中の深いところに病気の原因があることに気づかないで、健康に自信をもっている様なもので、大変危険なことです。本当の教育は、子どもたちに自信を持たせることであると共に、自分の弱さや限界に気づかせることでなくてはなりません。自信過剰がどんなに危険なものであるかは、登山の遭難事故がよく示しています。自分がひょうきんな裏切り者になるなどとは考えてもみなかったペテロの自信は、大祭司の女中から「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」(14:67)と言われた時、三度繰り返して、イエスの弟子であることを否定したことによって、無残にも崩れ去ってしまいました。野心のためにイエスを売り渡したユダも、身の安全を守るためにイエスの弟子であることを否定したペテロも、イエスを裏切ったことには変わりはありません。
ペテロは自分の裏切りによって、イエスとの交わりが決定的に断たれてしまったことに気づいて、後悔の涙にくれました。しかしいくら悔いたところで、過去を取り戻すことはできません。けれども、復活されたイエスは、ペテロに現れその罪を赦して再び教会の指導者としてお立てになりました(ヨハネ21:15以下)。
イエス・キリストは、ご自身を裏切るような弱い私たちを赦し受け入れてくださるのです。私たちの過去がどのようであっても、そのまま受け入れてくださるのです。ですから、過去の過ちに対して、いつまでもこだわるのは良くありません。ありのままの姿で受け入れてくださるイエス・キリストの愛にすべてを委ねて行くことこそ、神に喜ばれる道です。人間は弱く、誰もがいつ不誠実と背信に傾くかはわかりません。けれど、この卑小な人間に対する神の愛は、いつまでも変わることなく、人間の私たちが到底計り知ることができない程、深く高いことを更に知る者とされたい。 参考図書 斎藤正彦著「聖書に親しむ」