「方向転換」
聖書:マタイの福音書16章24-27節(新p34)
メッセンジャー:高江洲伸子師
人の思い
16節でペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです」と人類初の信仰告白を致しました。イエス様は喜ばれましたが、その信仰告白へ導かれたのは、「血肉ではなく、天におられるわたし父です。」(18)とペテロに告げています。
そのペテロはイエス様が、やがて「ユダヤ人の長老たち、…から多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」(21)ので、「…そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(22)と言うのです。するとイエス様はそのペテロに向かって、「下がれ、サタン。…あなたは神のことを思わないで。人のことを思っている。」(23)と叱責されたのです。人間的な愛でペテロがどんなにイエス様のことを思っていたかは十分承知のことだったでしょう。ペテロは後々復活の主イエスから「あなたは私をアガぺするか(神の愛で愛するか)」と問われた時も、「フィレをする(人の愛で愛します)」としか答えられなかったのです。
神の思い
私たちが、神に従ってゆくならば、ペテロの様に愛し、生きてきたところから大きく方向転換をする必要がおこってくるでしょう。それは、自分に向かっていた歩みを、神の方に大きく方向転換する飛躍の時を神が用意されたものなのです。イエス・キリストは言われました。「だれでもわたしについて来きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい。」(34)と。例えばスポーツ選手。スポーツ好きの人は多いかもしれませんが、苛烈な訓練に耐えられる人は多くはありません。霊的にも同じです。多くの人が、イエス様にある恵みを求めます。けれども、一歩前進したいと願うならば、自分を喜ばせている喜びと感謝の歩みの中で、ある時、自分が喜べない事柄に遭遇し、これ以上は、自分を捨てなければ前に進めないと思える事に出くわすでしょう。その時、どうするか、どのように対峙するかが神様から問われているのです。
自発的な決断
イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と言われました。英語のifです。もし、そう思うならと、本人の意思と願いがどの程度かが問われているのです。決して強制してはいません。スポーツ選手に課せられる厳しい特訓は、選手になりたいと思っているからこそ受けるものです。いつまでもイエス様のところにいたい、またイエス様について行きたいと願うのであれば、ということです。そこで、イエス様は34節のみ言葉を通して、三つのことを示しておられます。一つは、「自分を捨て」。二つ目は、「自分の十字架を負って」。三つ目は、「私に従ってきなさい」です。
「自分を捨て」を英語聖書では「自分で自分を否む」という表現をしています。「自分を否む」これは人間の本能とは正反対な動きかけです。なぜなら、私たちは自己を生かしたいと願っている存在だからです。心の王座を占めている自分の願望、自分の好き嫌い、自分の欲求を満たしたいというとてつもない固執、その執着心をあきらめて、主にその王座を譲るということは人間の本能と逆行しています。けれどもそれは、自分を痛めつけて自分を改造するという類のものではありません。キリストにあって古い己が、新しくされるというめぐみの力による新創造の業で、自己修養でなく、ただ主にお任せすることなのです。
<例 ココナッツの殻の中の手を入れたサル>
次に、イエス様は、「自分の十字架を負って」と言われました。 自分にとっては苛酷だと思われることが襲って来るとします。けれども、それもまた神の力強い御手の成せる業なのだということを知ることです(1ペテ 5:6)。イエス様はゲッセマネの祈りの席においても、「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(26:39)と祈られ、神がご自分に備えられたものを負われ、父なる神がなされていることに自分を従わせられました。
そのようにして、私たちもまた、「わたしに従ってきなさい」と言われるイエス様の御足の跡を従ってゆきます。通常、人は自分が何かを成し遂げようとする自分の掲げる目標に向かって、計算をし、計画を立てます。しかし、イエス・キリストは、「わたしについて来たいと思うなら…」自分のあらゆる思いを捨て、即ち、自分の意思に手をかけて、自分の計画を御破算にし、神の御心に自分を従わせ、「わたしに従って来なさい。」と言われるのです。
今週水曜日からレント(受難節)を迎えます。十字架を仰いで参りましょう。