「放蕩息子の帰る場所」
聖書:ルカの福音書15章11-24節(新p149)
メッセンジャー:高江洲伸子師
「放蕩息子」この話は一般の人にもよく知られています。元々は、罪人と言われている人たちと平気で食事をしていたイエス・キリストに、律法に厳格な人たちが不満を言ってきたことに対して、天の父なる神様のみ旨を知らせようとして話された譬え話でした。(15:1-4) 大切なことは、イエス様が何を理解させてくださろうとしているか、ということです。
ここに出て来るお父さんは天の父なる神さま、息子は私たち神に造られた人間を表していると考えることができます。息子は2人。1人はお父さんの言うことをよく聞いて間違ったことはしない息子で律学者やパリサイ人ともいえるでしょうか。もう1人は主人公の放蕩息子です。
家を出ていった息子の様子(11-13節)。「弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。」(13)。結果として弟息子はしたいと思っていたことをして、譲り受けた財産も使い果たしたが、得るものは何もなかった(14)。彼は、どうあれ、願望が満たされることが最高の人生だと思っていたのかもしれません。けれど、父から受け取った財産の「何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた」(14)。さらに飢饉が追い打ちをかけ、息子の空腹感は極限に至る様。空腹では生きてゆけません。豚かいになった息子。結果、「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」(16)と、イエス様は譬え話を進めています。
息子が使い果たした財産、これは、私たちに与えられているタラント、賜物とも理解できます。このタラントをどのように使うのか?この息子は、「放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。」(13)。彼は自分の願望を満たすために使った。私たち一人一人、父である神様から頂いている賜物があります。財産もしかり、賛美をする賜物もあれば、知識とか計算をする賜物のある方もいらっしゃいます。一人一人違っていますが、その賜物をどのように使うのでしょうか。自分を喜ばせ、誇示し、どれ程の功績をあげてもそこに真の喜びや満足は果たしてあるのでしょうか。放蕩息子は財産を使い果たしたものの、得るものはありませんでした。彼が得たのは空腹。そこで与えられたのは豚の世話をするという仕事。「豚が食べているいなご豆で腹を満たしたい」(16)と思う極限で、「しかし、彼は我に返って言った。」(17) そこで弟息子は、初めて自分の姿に気が付いたと言うのです。これは、悲惨な状況に陥った息子を登場させることによってイエス様が何かを伝えて下さろうとしているわけですが、人間が生きていく上で大切なことは何なのかを考えても良い場面です。
福音について、連続でみことばを取り次がせていただきました。コリント人への手紙15:3で使徒パウロは、最も大切なことの一番目に「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」と書いていましたが、弟息子は、ここでハタと気がついたのでした。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。…』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。」(18-19) 彼はここで、自分の罪に気がついたのです。父の心に反いていたことがどんなに父の心を悲しませていたかを。人間はどこまで行っても、自分は悪くないと思い、自分の姿を認めることができません。どのような犯罪を犯した人でも、心のどこかで、私はあの人よりもここがまだましだと思っていたりして、ストレートに「お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」と、潔く、神と人の前に罪を認めることができません」
ローマ人への手紙10章8節では、「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」と書かれていましたが、救いのめぐみの門は、私たちの日常の中にあります。職場に、家庭に、ごく普通の日常生活の中に、放蕩息子のいた豚を飼う部屋があります。そこは神様が備えられていて、その部屋にこそ父のもとに向かう道が開かれているのです。そして誰であれ、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」(ローマ10:11)のです。なぜなら、この息子の父は、放蕩に走った息子の帰ってくる姿を見た時、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(20)と、イエス様ご自身が言われているからです。それほど、天の父は一人の罪人が帰ってくるのを待っていてくださるのです。(※ルカ15:14)