「幸せの中に宿る人」
聖書:詩篇25篇12-15節(旧p956)
メッセンジャー:高江洲伸子師
元旦礼拝では「アブラハムの信仰」から導きを頂きました。続く、新年2回目の礼拝では、「ダビデの祈り」から教えられたいと思いますが、その前に、先週のメッセージについて、加筆修正しなければなりません。
それは、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」(創世記12:2)から、私は、父の牧師家庭への贈り物についてお話ししましたが、それは、決して牧師にプレゼントをする人が祝福されるというものではありません。(その様に受け取られた方はいらっしゃらないとは思いますが、)
「あなたを祝福する者を祝福し」という事について、私たちは互いに祈りで祝福することができます。裁きの祈りでなく、他者を祝福する祈りは、祈った相手の方も、祈り手自身も祝福される。また、思いや言葉で祝福することができます。
マルコの福音書9章40-41節で主イエスは、「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」と語られています。このお言葉を受けて、たとえ家族がキリスト者でなくても、主の道を歩む家族や同僚を援護してくださっている方もまた祝福から漏れることはないことを知ることができます。(注意しなければならないのは、それで、救いを得ているというわけではありません。)
そこで、今朝は祈りの祝福について詩篇25篇のダビデの祈りの詩から恵みを頂きましょう。
24篇でダビデは、「だれが 主の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか。」(3)と呼びかけた後、「手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。」(4) 「その人は 祝福を受け
自分の救いの神から義を受ける。」と言っています。その延長線上で、(その人は)「主を恐れる人」(25:12)であると解することもできなくはありません。いずれにしても、神の祝福の中で生きる時、高ぶる心や嘘偽りから遠ざけられてゆくことでしょう。
25篇1節で、主を仰ぎ求めている(25:1)ダビデの姿を見ます。昨日7日の教団誌「ベラカ」の聖書日課に、「神様の前に生きる時、初めて自分の弱さや取るに足りないものであるという自覚を持つことができます。」と書かれていました。ダビデは5節で、「私は あなたを一日中待ち望みます。」とまで言っています。これは、まさにダビデは主を待ち望みつつ、主の御前に生きる日々であったことを裏付けています。主を待ち望み、主が近づかれる時、見えてくるのは、私たちの内にある汚れです(7,11)。
「主を恐れる人は だれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。」(12)
人は自分の裸の姿を知らされる時、真の謙りと神を恐れる心が与えられる故に、「主はその人に選ぶべき道をお教えになる」(12)。リビングバイブルでは、「主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えて下さいます」とも訳されています。イザヤ48:17 これは、神の御前に生きる者たちの基本的姿勢とも言えます。
「そのたましいは 幸せの中に宿り その子孫は地を受け継ぐ」(13)
リビングバイブル「その人は神の祝福の中に住み、」文語訳「平安(やすき)にすまひ」とそれぞれ訳されています。念頭私たちは、「幸せな一年でありますように」と互いに挨拶を交わしますが、その「幸せ」は何を意味しているのでしょう。一般的によく読まれているアランの「幸福論」には、「幸福は遠くの未来にある限り光彩を放つが、つかまえてみると、もうなんでもない。…幸福を追っかけるなどは、ことばの上以上には不可能なことである。」と言っています。多くの人は追い求めて、「つかまえてみると、もうなんともない」程のはかない何かを求めているのが現状です。けれど、聖書は、主を恐れる人は、平安が共に住み、幸せな家庭生活を営むことを保証しているのです。
「主はご自分を恐れる者と親しく交わり その契約を彼らにお知らせになる。」(14)
「親しく交わり」は「秘密」「はかりごと、神のみ旨」とも訳され、リビングバイブルは、「神様はそのような人とだけ、秘密の約束をかわされます。」と訳す。※Ⅰコリ2:14-16<ヤコブが叔父ラバンから騙された時、実はヤコブは昔お兄さんのエソウをだましたことがあった。こうしたことは神様にしかわからない出来事。神様との交わりはその人にしかわからない面をもっている背景に対しても秘密の約束をかわされる。> 契約は神との交わりに入れられること(新聖書注解)
「私の目はいつも主に向かう。主が私に足を罠から引き出してくださるから」(15)
それゆえ私たちはダビデのように日々主を恐れ、仰ぎ求めます。詩篇123:1,2