「待降節-み言葉に信頼して備えられてゆく」
聖書:ルカの福音書1章8-20節(新p106)
メッセンジャー:高江洲伸子師
み言葉の権威
「天地は消え去ります。すかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31)とイエス様は仰られました。(先週のメッセージです。)はじめに神が天と地を創造(Creation)されましたが、創造された一つ一つを言葉によってこの世界は作られ(make)ました。神様が「光あれ」(創世記3:1)と言われると光が差し込み、また、大空が現れてゆき、順々と一切のものが主のみことばによって出来上がってゆきました。そうして、沢山の月日が過ぎてゆき、遂に、神が造られたこの世界のさいごの時が訪れ、全てが消え去ったとしても、主のことばは決して消え去らないとイエス様は言われています。
伝道の書8章4節には、「王のことばには権威がある。だれが王に『何をするのか』と言えるだろうか。」と書かれていますが、王権制度における王の命令は絶対的です。王が命ずれば、臣下はそれをしなければなりません。ましてや、真の王であり、この世界を造られたお方のお言葉には絶対的権威がありました。
神が生けることばとなってこの世に来て下さったのがイエス様です(ヨハネ1:1)。キリストが「黙れ、静まれ」と言われるとガリラヤの海はなぎ、空は晴れました。そして、「あなたの罪は赦された」のひと言で、ただちに罪の子を神の子に生まれ変わらせました。目の見えない人、手足の不自由な人、死者をすら、そのおことばをもって回復されたのです。
けれど、旧約聖書の最後マラキ書が書かれてからイエス・キリストの御降誕までの約400年間は、神様は全く黙して語られず、預言もありません。国は様々な強国に踏み荒らされ、決して、平和で幸せな時代ではありませんでした。
信じない者から信じる者に変えられていった祭司ザカリヤ
そうした中で、神は沈黙を破られて、祭司ザカリヤに主のことばが臨んだのです。その内容は、イスラエルが真の救いを得るための主の先立ちとなる器を奥さんのエリサベツが生むというものでした(ルカ1:13-17)が、ザカリヤはそのまま信じることができませんでした。夫婦ともに老齢で、奥さんの出産年齢ははるかに過ぎていたからです。そこで天使はザカリヤに言いました。「見なさい、これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」(ルカ:20)と。
「口がきけなくなり、話せなくなります。」
ザカリヤは御告げ通り子どものヨハネの誕生までは、言葉を話せなくなりましたが、不信仰が内を占めている時、人は誰でも、魂に語りかけられる主の御言葉を受け止めることができません。子ども讃美歌は、「 2.小さいわたしの くちびるで主の/尊いお名前 褒め歌います/3.小さいわたしの 目は神様の みことば毎日 読むためにある/(作詞:E.E.ヒウィット)と賛っています。イエス様は、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」(マタイ18:3)と言われましたが、幼い時(信仰の初期)に養った大切なものを失いながら大人になる(キリスト者として年月を重ねてゆく)のでは意味がありません。幼い日に身に着けた良いものを守る知恵をいただきながら、信仰的に育ってゆくことがとても大切です。
「その時が来れば実現する私のことば」
みことばは、種を植えた後、水を光と空気の三要素があればやがて発芽するように、時が来れば現実になってゆきます。それは、種であるみことばの中に命があるからです。けれど、水もなく光もなく空気もなければ種そのものが枯れて死んでしまうでしょう。また、折角発芽しても、水や光や空気が不足すると、成長から結実は非常に難しくなるでしょう。信仰の健やかな成長の為に、聖書から離れず、礼拝を大切にし、祈ることは必須条件です。