11月6日礼拝メッセージ

「貧しさの中で」

-マルコの福音書に学ぶ⑲-

聖書:マルコの福音書12章41-44節(新p95)

メッセンジャー:高江洲伸子師

段々とクリスマスの足音が近づいてきています。クリスマスと言えば、思い出すのが、三人の博士です。彼らは「新しい王」に謁見するために、誕生祝を手にして、遥々外国からラクダに乗ってエルサレムの宮殿を訪ねました。宮殿には、真の王であるキリストはいなかったのですが、車も電車も飛行機も無い中での海外旅行です。大変だったと思います。けれど、彼らがキリストにおささげした黄金はヘロデの魔の手を逃れて行ったエジプトでのヨセフ家の生活費とされ、乳香、没薬は、真の王キリスを証する上で時を得た贈り物でした。信仰と神へのおささげ物は、その人の神様に対する心の言葉とも言えます。(金品だけのことではありません。)

レブタ二つ
パームサンデーにエルサレムに入場したイエス様(11章)は、その週の金曜日には十字架に掛かられることをご存じの中で、宮きよめをされました。ぶどう園の農夫の話(12章)他、律法学者の質問に答えて、大切な戒めについて語られたイエス様は、「献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられ」(41)ました。「金持ちがたくさん投げ入れ」る様子も見ていました。「そこに一人の貧しいやもめが来て、」レプタ銅貨2枚という、本当に僅かの献金をしたのです。ところがイエス様は、弟子たちをお呼びになられて、この女性は、だれよりも多くのささげものをしたと言われたのです。イエス様の目には、彼女がささげたレプタ2枚は、金持ちのたくさんの献金に勝って、豊なささげもののように映ったのです。これは、イエス様は、ただ「見ておられた」ということではなく、人々の心の奥までも、鋭く見通しておられたということを表わしていることが分かります。
 福音書には、「知っておられた」と言う言葉がよく出て来ます。マタイ6:8には、「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」と書かれています。ルカ16:15では、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。」。ヨハネ10:14は、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、」とも書かれています。実に私たちの主は、外側だけを美しく飾ろうとする見せかけの中身を知られ、ひっそりと貧しいささげものをしたやもめがどのような状況の中でそうされたかをもごぞんじで、「これぞ本当のささげものである」と言われたのです。
 
あり余る中からか、乏しい中からか 
「あり余る」という言葉は、食べ残したものという意味にも通じる言葉ですが、この女性のレプタ2枚は、「乏しい中から、もっているすべてを、生きる手だてのすべて」(44)でした。神様が私の全生活に責任をもってくださるという信仰無しに、自分の生活のすべておあずけすることはできません。彼女は、全財産を手放すことによって、ただ信仰のみによって生きる決心を表明しているのです。まさに、この女性は、さいごのレプタ2枚をもって、全生涯を神にささげたのでした。しかも、この女性は、人はどう思うかということは、全く念頭になく、「こんな少しで恥ずかしい」と言うてらいもなく、ごく自然に、ただ神に対する感謝と献身の思いを精一杯現わそうとしたのでした。
マルチン・ルターの宗教改革に繋がった免罪符は、それを買った人々には煉獄の苦しみを軽くされるという意味をもっていました。人々は商売繁盛や、家内安全、自分の苦しみからの解放という自分につける欲得を願って免罪符を購入するようになります。この時、「献金」という神に届く尊い行為は、まさに御利益信仰の手立てに成り下がっていたことを心に留めなければなりません。献金は、私たちの信仰のことばであり、私たちの生活が神の中で生きる恵の手段です。

証<私が備前市に努めることになった時、牧師夫人は私に会計簿を渡されました。お給料の最初の十分の一を聖別してまず献金する。すると、神様は必ずその月の必要を満たされるというのです。その時、すでにその月の十分の一は手元に残っていませんでしたが、あったものを全て神様におささげしました。すると翌日、姉からお祝いの入った現金封筒が送られてきて、中にはささげたと同額のお金が入っていたのです。その後、私の生涯に、こうしたことが度々おこりました。そして現在に於いても、「まして、天の父はそれ以上にあなたがたによくしてくださらないことがあろうか」とのみことばが絶えず心に浮かんできます。それは、献金だけではありません。時間やその他の必要においてもまたそうなのです。

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