「あらゆる民の祈りの家」
-マルコの福音書に学ぶ⑰-
聖書:マルコの福音書11章12-18節(新p91)
メッセンジャー:高江洲伸子師
エルサレム入場の翌日、いよいよ十字架に向かわれる秒読み態勢下での出来事。イエス様はいちじくの木を枯らせてしまわれ、続いて「宮きよめ」をされました。
イースターの頃ですから、まだ夏には早く葉はまだありません。枝先の芽がほどき始めている頃でしようか。この時期に葉だけ茂っているいちじくの木があったことの方が不思議ですが、イエス様はその木に向かって、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」(14)と呪われたのはなぜでしょう。続く荒々しいほどの宮きよめの記事の挿入。翌日、「さて、朝早く、彼らが通りがかりのいちじくの木を見ると、それは、根元から枯れていた。」(20)とマルコは記しています。
1,なぜいちじくの木をのろったのでしょうか。(12-14)
エレミヤ(8:13)、ヨエル(1:7)では、ぶどうやいちじくはイスラエル民族が神の手によって培われる存在として象徴的に描かれています。そして、この時期に葉を茂らせている不自然ないちじくの木を通して、イエス様は、茂っているかのように見えていても、実のない実態を見抜き、見せかけだけの偽善を忌まわしいこととして象徴的にのろったのかもしれません。それは、また、その時のイスラエルそのものを表していたと理解できます。彼らは、表面的には熱心に神を礼拝し、民族をあげて過越しの祭りも忠実にまもっているように見えましたが、キリストはそこに潜む数々の偽善と、ついには遣わされたひとり子をも十字架につけて殺してしまうという神への反逆の姿を、見抜かれていたのでしょう。
2.なぜイエス様は激しい怒りをもって宮きよめをされたのでしょうか。(15-18)
長旅をして、礼拝をささげるために、傷のない生贄の動物を連れてエルサレムへ上って来るのは難しいことでした。そこで人々は、神殿で売られていた生贄用の動物を買って、それをささげるようになっていました。また、外国のお金をささげることはできなかったので、外国から礼拝の為に来た人々は、まず貨幣を両替しなければなりません。更に、通行税や神殿での税金も支払う必要がありました。こうした中で、当時の祭司と商人はぐるになり、両替の際の手数料はじめ、礼拝用の売買の権利一切を手中に治め、法外な利益を貪っていました。けれど、この時表わしたキリストの怒りは、社会的正義によるものではなく、神聖な場所が人間の欲望の為に利用されている事への怒りでした。もしも、私たちが主を礼拝する動機が商売繁盛などのご利益を求めてならば、ここでの祭司や商人と同質のものと繋がっていることを認識し、警戒しなければなりません。いつの時代でも人間は、自分の利益や野心の為に神を利用するのです。
3.「あらゆる民の祈りの家」(17)
「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」(17)
イエス様が宮きよめをされた宮の庭は、異邦人の庭と呼ばれる場所で、そこまではユダヤ人以外の外国人も、立ち入ることが許されていました。その異邦人の庭が市場のようになっていたということは、外国人が神を礼拝することが非常に軽んじられ、妨げられていたということになります。イエス・キリストは、ユダヤ人だけでなく、人種や国籍を超えて、すべての国民の救い主として来られました。御子の到来以後、神殿は「あらゆる民の祈りの家」となったのです。
それはまた、エルサレムの神殿だけが聖所ではなくなったということであり、エルサレム神殿に限られていた礼拝の在り方に終りを告げたということでもあります。イエス・キリストの十字架による罪からの贖いと復活により、今や世界中のあらゆる国民が、どこででもイエス・キリストのとりなしによって、生ける神を礼拝できることが解禁されたということに他なりません。
横浜栄光教会もまた、「あらゆる民の祈りの家」ですから、牧師自身の念頭に奉仕がある事等も戒めなければなりません。「神の宮」では心の膝をかがめ、まず祈りをもって御前に近づくことが第一にされなければならないでしょう。いちじくの木が枯れているのを見て驚いている弟子たちにキリストは、神を信じて祈ることの重要性を説いています(20-24)。同時に、祈りが神にきかれる最必要条件に愛と赦しをあげています(25)。使徒パウロは「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)と言いました。血潮の赦しの中に神は宿られ、そこでささげられる祈りはきかれるのです。